
その答を考えることから始まった。おそらくわかりやすい回答は、今回の上演作品、すなわちマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とレオンカヴァッロの「道化師」が、いずれもヴェリズモ・オペラであるということだ。舞台はともに南イタリア。まだ因習の残った小さな村だが、近代化の波は押し寄せていて、人々は自由を求め始めていた。そこで起こる血なまぐさい劇は、テレビドラマのような展開を見せる。ドロドロした人間関係、不倫が引き起こす悲惨な結末。人は人を殺し、愛情は屈折する。このような内容が女性人気の理由なのではないか、とひそかに思う。
さて今回の「二本立て(ダブル・ビル)」は、いずれも新演出でデイヴィッド・マクヴィカーがこれを担当している。私はこの演出家をとても気に入っているので、これは見ないわかにはいかない。そしてMETライブでこの作品を上演するのも初めてだし、私はビデオやCDでしか見たこともない。個人的にはヴェリズモ・オペラがそれほど好きな方ではないが、やはりこれらは見ておくべき作品だろう。
マスカーニを一躍スターの座に押し上げたのが「カヴァレリア・ルスティカーナ」である。1890年のことだ。マスカーニは1945年まで生きていた作曲家だから、自作自演の録音も残っているようだが、私はこの作品をゼッフィレッリの監督するオペラ映画(ジョルジュ・プレートル指揮)で初めて体験したし、カラヤンのCDも持っている。カラヤンの有名な「間奏曲」はそれだけで涙が出るほどに美しく、音楽というのは奇麗なメロディーだけでどうしてこんなに感動するのだろうといつも思うほどだ。
今回は指揮がファビオ・ルイージである。彼は今やMETの首席指揮者だがこういう作品を指揮するとその才能が如何なく発揮されるように思う。出だしの前奏曲とそれに続くいくつかの合唱は、この作品が丸でミュージカルのように楽しく、ポピュラーなものであることを示している。主役はサントゥッツァ(ソプラノのエヴァ=マリア・ヴェストブルック)で彼女はほぼ一貫して舞台に登場している。円形の回転舞台を囲んで並べられた椅子に黒い服の人々が座ると、何か新興宗教の儀式のようだが、この日は復活祭の日。登場人物は皆黒い服を着ているので、作品中一貫して華やいだところがない。
サントゥッツァは自分を捧げたトゥリッドウ(テノールのマルセロ・アルヴァレス)のことが忘れれない。それで彼の母親ルチアのもと訪ねる。もとより小さな村なので皆が知りあいのようなものなのだが。サントゥッツァはトゥリッドウがいつしかこの村に帰っていること、そしてあろうことか、すでに彼を捨てて馬車屋のアルフィオ(バリトンのジョージ・ギャグニザ)に嫁いだはずのローラと密かに通じていることを知ってしまうのだ。サントゥッツァはトゥリッドウに会って復縁を迫るが、逆ギレされとうとうアルフィオにトゥリッドウの不倫を知らせてしまう。このことが決定的にトゥリッドウを、そして彼女をも不幸に陥れる引き金を引いてしまったのだ。ああ、なんということか!
有名な二重唱は前半部分にあるがシンプルな舞台で音楽的なメリハリだけが勝負である。またそのあとにあの間奏曲もあるが、無難にこなした感じである。後半の緊迫したアリアも素晴らしかったが、全体的に見てソプラノとテノールが絶唱するヴェリズモ・オペラ独特の雰囲気が会場を覆う。圧倒的な迫力は作品の持つポテンシャルをほぼ完全に表現していたように思うが、あくまで舞台を、オペラ上演を見ているという感覚から脱することはなかった。だから質が低いとは思いたくはない。けれどもどんなに滑稽なストーリーであれ、それが美しい音楽を伴って歌われる時、なぜか涙腺を刺激するような瞬間がある、というのがオペラの不思議でもある。ヴェリズモはあまりに現実的なストーリー過ぎて、見る側にそのような意外性を発見するだけの心理的余裕を消失させてしまうのだろうか。
トゥリッドウに決闘を申し込まれたアルフィオは、トゥリッドウを刺殺してしまう。そのことを知ったサントゥッツァとルチア。私はこの母親のルチアが気の毒でならない。トゥリッドウは自分が死んだら、サントゥッツァの母親になってくれ、などと嘆願するが、こういったあたりは何か白々しい。皆が幼馴染みのような小さな村で、このような悲劇は起こるべくして起こった。ルチアまでもがソプラノで歌われると、オペラ自体が高い声の出し合いとなる。ヴェルディやそれ以前のオペラと違って低い声の歌はあまり聞かれず、そのことが何か通俗的な気分にさせ、私をヴェリズモから遠ざけけいるのかも知れない。
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