解説書によれば、モーツァルトはイタリア旅行を終えてからウィーン旅行をはさんだ1772年から1774年の間に作曲された一連の交響曲群(約16曲)の中で、最後のものがこの第30番である。十代のザルツブルク時代のモーツァルトの交響曲の最後の作品、ということである。この時モーツァルトはコロレド大司教との諍いに悩む18歳の青年だった。
前作の第29番がとても機知に富んだ素敵な作品であるのに対し、この30番はあまり目立たず、作品の印象も薄い。実際なかなかこれという演奏に巡り合えず、このブログで取り上げるのもやめようかと思ったが、 何度も聞いているうちにやはり何か書いておこうと思った次第。
第1楽章の冒頭は勢いのあるファンファーレ風だが、この部分だけが印象的である。ソナタ形式のきっちりとしたメロディーはハイドンを思わせる。ネヴィル・マリナーはこういう音楽を真面目にしっかりと演奏していて好感が持てる(ついでに言えば、今一つの演奏はアーノンクール指揮コンセルトヘボウ管弦楽団のものだろう)。
前作と比べても地味な緩徐楽想を経てメヌエットに移行するが、これも印象が薄い。終楽章では プレストとなって快速に音楽が進行するが、よくあるモーツァルト作品がそうであるようにあっさりと終わる(これも前作とは異なる)。
ここで思い起こすべきは「ギャラント様式」ということだろう。これは当時流行していた音楽の様式で、バロックから古典派への移行期に見られる 旋律美を活かした音楽。フランスのロココから発展したものと言われ、ドイツで発展した「多感様式」とほぼ同義に使われるみたいだ。バッハの2人の息子、ヨハン・クリスチャンとカール・フィリップ・エマニュエルの作品に顕著に現れているという。私はあの複雑で荘重なバロック音楽の次に、一気に古典派作品(たとえそればハイドンであっても)に移るのを、いつも不思議な気持ちで聞いていたが、この移行期には実は多様な流行があったことがわかる。丁度フランス革命の直前ということになる。
モーツァルトは当時の流行を捉え、自らの作品に取り入れた。これは後にウィーンにおいて自由闊達な作風へと変化する萌芽と見ることができるかも知れない。だがモーツァルトはザルツブルクを離れてマンハイムに向かい、さらにはパリへと足を延ばす。モーツァルトがイタリアで仕入れた音楽は、これらと融合して発展する。ウィーンに移住するのはさらにそのあとだ。
モーツァルトの交響曲をだどっていくと、この変化が手に取るようにわかるのではないか、などと考えながらザルツブルク時代を終える。「パリ」とニックネームの付いた次の交響曲が作曲されるのは1778年のことで、3年半も後のことである。
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