さて「リンツ」の次は「プラハ」である。プラハは言わずと知れたチェコの首都で、モーツァルト贔屓の街として知られている。歌劇「フィガロの結婚」がいつまでも流行るのを知ってかの地を再び訪れ、次の「ドン・ジョヴァンニ」を初演したのは有名だ。この交響曲は、最初のプラハ訪問の際に演奏された。今でもプラハの人々は、モーツァルトのとの深いつながりを誇りに思っているようだ。
ヨーロッパを旅行した数多くの人々が、プラハの街の美しさを絶賛する。一度でいいから行ってみたいと思いつつ私は果たせていない。もっとも若い頃のチェコ(当時はチェコ・スロヴァキア)は共産主義国だったから、観光にもビザも必要で、大変旅行がしにくかった。私は西ベルリンやウィーンには足を延ばしたが、東欧の諸都市には行くことをためらった。ドレスデンもライプチヒも、あるいはブダペストもプラハも、私にはまだ鉄のカーテンの向こう側に存在してしまっている。
ヴルタヴァ川の向こう側に旧市街を見上げるプラハの写真を、誰もが一度は見たことがあるだろう。その風景は時に夕暮れ時であったりする。そうでなくても抒情溢れるチェコの音楽をこよなく愛しているが、モーツァルトがこの街に捧げた作品もまた、大変懐かしい気分がする珠玉の作品である。天空を哀しみが疾走し、それでも明るくて爽やかなモーツァルトのすべてがこの曲に含まれている。そして、この曲の魅力を伝えてやまないのが、チェコ生まれの巨匠、ラファエル・クーベリックの演奏だ。
重々しい序奏から始まる。ゆっくりと進むその音楽は、どこかオペラの序曲の冒頭のようである。ここに「ドン・ジョヴァンニ」の先駆けを感じる人も多い。序奏はしっかりと数分間続き、この間の変奏や和音が、その中庸を得た平衡感覚のまた見事というか、いい演奏で聞くと私などはこれだけで感じ入ってしまうほどである。
一瞬間をおいて走り出す主題は、「魔笛」の序曲を思い出す人も多い。実はこの曲の主題には、「フィガロの結婚」からのメロディーが取り入れられているらしい。ティンパニや木管楽器の色合いがこれほど見事な曲もなく、初めて聞いた時から「完璧な音楽」というのはこのような音楽のことを言うのだろうか、などと思った。中学生の時だから、漫然と聞いていたのだけれど、あとでそれは厳格に使われた対位法やフーガといった技巧の故だと知った。
第1楽章でほんのかすかに変化する色合いは、フレーズのちょっとした移行部分や調性の変化の際に露わになるのだが、クーベリックはここを実にうまくやってのける。ちょっとテンポを落として、ちょっぴり曇ったり、晴れたり、メランコリックになったりと絶妙の塩梅である。バイエルン放送のオーケストラは、ドイツのオーケストラにしてはい明るめの音色が特徴だが、それが「プラハ」に活きている。
第2楽章アンダンテは、のどかな田園の雰囲気だが、ときおり厳しくて寂しい気持ちが表れる。秋の木立の道を行くようだと勝手に想像しているのだが、これはもしかしたら当時のLPレコードのジャケットがそうだったからかも知れない。当時のジャケットの写真が見つかったので、ここではそれを掲載しておこうと思う。
「プラハ」にメヌエットはない。終楽章である第3楽章は、再び快活な音楽となる。だが何度聞いてもこの曲は、ただ明るい曲ではない。むしろ例えようもなく淋しく、そして理知的である。あまりに完璧な音楽は物悲しい。時に音が途切れてほとばしり出るフーガは、「ジュピター」の先駆けを思わせる。
クーベリックによるモーツァルトの後期六大交響曲集が発売されたとき、どの曲のレコードを買おうか迷った。3枚のLPが一気に発売されたからだ。この演奏は、またたく間に評判となり、クーベリックのモーツァルトがこんなにも表情が豊かで、非の打ち所がない演奏なのに、どうしてそれまでに録音されなかったか不思議なくらいだ、などと評判になった。ライブでは何度も取り上げているようだったから、これは満を持しての録音だったのかも知れない。レコード・アカデミー賞なるものに輝いたと記憶している。
私はこの「プラハ」を含むレコードを買って、すぐにその演奏の虜となった。その後、最終的にはすべての曲の演奏を聞いたが、この「プラハ」はいちばん出来栄えが良いように思われた。物思う頃に、学校から帰るとそれこそ毎日のように聞いていた音楽が、何十年もの時を経て蘇る。私はクーベリックの指揮でしか、この曲を聞けなくなっている。
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