2021年12月19日日曜日

東京交響楽団演奏会・第172回名曲全集(2021年12月18日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:秋山和慶)

本当に感動的なコンサートは、あとあとまで余韻が残るものだ。今年最後のコンサートに、年末の「第九」を選んだ。久しぶりだった。今年は妻が「第九」を聞きたいと言ったからだ。ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」を聞くのは、2018年末のNHK交響楽団(指揮:マレク・ヤノフスキ)以来3年ぶりである。コロナ禍で多くのコンサートが中止となった昨シーズンから年月が経ち、ようやく日常が取り戻せるようになってきた今年の締めくくりに、「第九」ほど相応しい作品はない。

ところが「第九」は人気作品であって、どの公演も満員御礼となることが多く、今年も例外ではなかった。各オーケストラが短い期間に演奏を競い合う中、やや惰性的で散漫な演奏も少なくない。今年のコンサート情報を眺めながら、私たちが行くことのできる日程(それは週末に限られる)と会場から、売れ残っているチケットを探し始めたのが11月のことであった。

幸なことに、東京交響楽団が名曲全集と銘打ったシリーズの中に、辛うじて席を探し出すことができた。とはいえまだクリスマスも1週間後に控えた12月18日。年末の雰囲気には少し早すぎる。これは各公演の中でも最も早いもので、東京交響楽団でもこのあと30日まで断続的に「第九」公演が続く。しかし早くも冬休みに入った高校生の息子に尋ねると、しぶしぶ「行く」と答えた。何でも「オミクロン株」なる新しい変異型コロナウィルスが世界を席巻しつつある中、いつ何時再度ロックダウンという事態も起こりかねない。行けるなら早い方がいい、というのが私たち家族の結論だった。

14時前に会場へ赴くと、すでに大勢の人でにぎわっており、公演情報を映した掲示板にはチケットはが売切れと表示されていた。ホールはすでに満席の状態で、こういう光景は久しぶりのことである。あらためて「第九」の人気に驚くが、やはり今年はちょっと気分が違っているのかも知れない。昨年にも「第九」の演奏がなされたのかは知らないが、まあそんなことはどうでもよい。指揮はこの楽団の音楽監督である秋山和慶。1941年生まれというから御年80歳。私の父とほぼ同年代である。先日(12月4日)ここ川崎で、彼の指揮する洗足学園のオーケストラによるサン=サーンスを聞いたばかりだが、学生オーケストラとは思えない落ち着いた名演奏で、私は息を飲んだほどである。この他にもかつて、東響でマーラーの「嘆きの歌」の名演に接している(もっと古いところでは1989年に神戸でN響公演を聞いている)。

秋山の指揮は私にとって、とても印象深い名演の記憶ばかりである。非常に端正でオーソドックスながら、洗練された美しい響きで新鮮な印象を残す。外面的な効果を狙うわけではなく、音の重なりの微妙な違いをきっちりと表現し、どのフレーズも次につながる時に停滞したり、急ぎ過ぎたりしない。こういうちゃんとしたところは、素人の私が聞いていても大変よくわかるし、几帳面であるものの堅苦しくはなく、むしろモダンである。思えば小澤征爾と始めたサイトウ・キネン・オーケストラの初回の演奏会には、彼が小澤と交代で指揮をしていた記憶がある。桐朋学園における斉藤秀雄の門下生ということになる。もっとも小澤は1935年生まれだから、6歳ほど年下ではあるが。

プログラムの最初にワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲が演奏されるというのも、今となっては大変古風でさえあり、私などは大いに好ましいと感じる。そもそも「第九」のみでは、何か損をした気分になるのだが、ここにワーグナーを持ってくることで、「第九」から最も啓示を受けた作曲家のひとりにスポットライトを当てる。

だがその演奏は、残念ながらオーケストラの試運転状態といったところ。私の席からは、丸でおもちゃのような音がしていた、と書けばちょっと気の毒だが、アマチュアに毛の生えた程度の演奏に思えたのは私だけではなかったようだ。クライマックスのシンバルが少し早すぎたように感じたし、それは1回だけではなかったので、「第九」の時にどうなるのかちょっと心配になった。

休憩なしで「第九」が始まった時、合唱団とソリストはまだ舞台に上がっておらず2巻編成のオーケストラのみ。向かって左手から第1・第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順。右手奥にコントラバス。一方、打楽器は左手奥に並び、ちょっと私の席からは見えにくい。この会場は舞台で死角となる部分が、座る席のよって多いのが残念である。また残響が大きく、私の好みとはやや異なる。しかも縦に高く、席は非対称というのも変わっている。この結果、3階席以上となると見下ろす感じとなる上に、間接的な音波のみを聞いているような感じがする。今回はS席2階だったので直接波を聞いている感じがしており、こういう状態で「第九」を聞くのは、もしかすると初めてではないかと思った(正確にはサイモン・ラトルの指揮でウィーン・フィルの「第九」を聞いているのだが、どういうわけかこの時の印象がぼやけている)。

オーケストラから緊張が感じられたのは第1楽章を通しても変わらなかった。決して間違いを犯すわけではないのだが、まだ固く、アンサンブルの溶け合い具合が定まらない。これは実演でよくあることで、仕方がないのだが、この後どうなるかというところがとても大事である。それにしても「第九」というのは長い曲だなと改めて感じる。

第2楽章に入って、オーボエを始めとするソロ、ティンパニの活躍を含む長いスケルツォが進むにつれて、ようやくエンジンの調子が良くなってきたように感じたオーケストラは、第3楽章のアダージョをとても美しく弾き切った。目を閉じると、各パートが管楽器と重なる時の音色の変化がとてもよくわかる。これはやはり実演で聞いてこそ感動的である。録音・調整された音が鮮明に各楽器を捉えているのは当然のことだが(そうでないものもある)、ライブで見ながらこれを実感するのは、驚異的なことだと思う。

まだ録音技術がなかった今から200年前に書かれ、その後多くの作曲家に底知れぬ影響を与えた「第九」は、おそらく実演で聞いた時の感動たるや、想像を絶するものだったに違いない。アダージョ楽章の、管楽器がしばし揺蕩うひとときを経て一気に3拍子で流れを変え、ピチカートでクライマックスを築く時の変化は、この音楽の分岐点としてその後に続く「新しい音楽」への序章でもある。ここを境にして、今日の演奏もまた、大きく飛躍を遂げたと感じたのは私だけではなかったようだ。

間を置かず第4楽章に突入するのが近年の流行りだが(そのため、合唱団とソリストは第2楽章と第3楽章の合間に登場した)、この理由は、やはり第3楽章の「頂点」から一気に下るスピード感に弛緩を許したくないからだろうと思った。第4楽章の最初に各楽章の回想シーン(とその否定)があることから、私は長年、第3楽章のあとに「切れ目」があると思っていた。だがそうではないのだ。

低弦楽器のよっておもむろに「歓喜の歌」の旋律が流れてきたとき、今日の演奏はとてもいいものになると確信した。各楽器が右から左へと重心が移り、その変わる様を「生のステレオ」効果によって実感することができる。そしてついにバリトンが大声で宣言する。「おお友よ、もっと喜びに満ちた歌を歌おう!」

今日の歌手は全員日本人で、バリトンは加耒徹。その声は大音量をもって会場にこだまし、この音楽の際立った目印を示した。「やるな」と思った。決定的な宣言が音波を通し、震えるようなエネルギーとなって体に共鳴を与える。雪崩を打つように合唱団が、ソリストが歓喜を歌う。総勢40人程度しかいない新国立劇場合唱団の、何と見事なことか!ソプラノの安井陽子が、負けじと大声を張り上げる。彼女の歌はもはや誰の耳にも明確に聞こえ、メゾ・ソプラノの清水華澄も円熟の音楽性だ。

長いフェルマータも、秋山は無駄に伸ばしたりはしないあたりが、演奏に程よいストレスを持続させるのだろう。行進曲でテノールの宮里直樹が、これでもかと歌う声はまだ若くて張りがあり、そのことがとてもいい。フーガに突入するオーケストラ、そして大合唱。「第九」の聞きどころは続く。

だが、本日最大の聞きどころは、このあとコーダに入るまでの、天国的な空間に分け入る部分だった。厳かで畏敬の念を感じさせる「第九」の真骨頂を、その通り示したのだ。これは私の「第九」経験史上、初めてのことだった。4人の歌手と合唱が一体となって神を賛美し、人類の歓喜を鼓舞する。ここが「第九」最大の聞きどころだとわかってはいても、そう感じる演奏にはなかなか出会えるものではない。CDやビデオの場合は、ここまで集中力をもっておかないとよくわからなくなってしまう。ライブの場合では、客席を含めもっと数多くの要素が絡む。

消え入るような歌唱に続いてコーダになだれ込む「第九」の最後は、もうどうでもいいような歓喜の中を突っ走る。秋山の指揮は、その状況でも合唱とオーケストラのバランスを鮮明にし、テンポをやや抑え、そこはかとない効果を指示することを忘れない。これは練習通りにやったためでのことかも知れないが、さらに白熱した演奏ぶりは指揮からも十分に感じ取れる。

正攻法の「第九」を久しぶりに聞き、「音楽」を味わったと思った。満場の拍手は途切れることなく続いた。舞台最前列に登場した4人のソリストが、次のカーテンコールでは元の位置(合唱団の最前列)に上がった時、まさかアンコールが演奏されるとは思わなかった。緊張が解けて、最高のアンサンブルに成熟したオーケストラから充実した響きが流れてきた。合唱が重なると、それはあの有名なスコットランド民謡だった。私は感涙し、体の震えが止まらなかった。これほどにまで美しい合唱を聞いたことがない。その震えは暫く続き、涙で舞台が見えにくくなったと思っていたら、照明が少しずつ消えて行き、最後には指揮とコンサートマスターのみを照らし出した。「蛍の光」を歌う合唱団とオーケストラのメンバーがペンライトを持っている。このまま続けて第2番の歌詞も聞いていたいと思ったら、音楽は終わってしまった。だが思いがけない年末のプレゼントに、会場は再び沸いた。

このような企画は、最初から予定されていたのだろう。毎年恒例の行事かも知れない。けれどもそうとは知らない私たちは、この光景に大いに感激し、初めて味わった「第九」の見事な演奏にしみじみととした余韻の時間を過ごした。たった1回限りの音楽は、それが名演であれば、はかないながらも説得力のあるものとなる。「第九」の感動によってワーグナーは、ベルリオーズは、ブルックナーは、そしてマーラーまでもが作曲家になる決意をした。その力は、こういうことだったのか、と思った。また来年も、このコンビによる「第九」を聞きたいと思った。心温まる感動を残しながら私たちは、師走の川崎の街をあとにした。

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