2023年11月16日木曜日

シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105(パーヴォ・ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団)

シベリウス最後の交響曲第7番は、短いながらも味わいに満ち、様々な要素が凝縮された愛すべき作品である。シベリウスのすべてがここに詰まっているような気がする。この第7番こそシベリウスの交響曲の最高峰だという人が多いが、私もそれに同意したい。1924年に初演されたが、シベリウスはこのあと20年以上もの残りの生涯に、次なる交響曲を残すことはなかった。

単一楽章だが4つの部分に分けて聞くことができる(いくつかのCDでは、この4つの部分を別のトラックに分けている)。演奏はシベリウスの第一人者とされるパーヴォ・ベルグルンドによるものを聞いている。ベルグルンドの演奏を絶賛・評価する人は多い。私もどこかで取り上げようと思っていたが、とうとう最後の交響曲になってしまった。ベルグルンドには、3種類の交響曲全集が残されているが、私が聞いてるのはそのうちの2番目、ヘルシンキ・フィルを指揮したEMI盤である。録音は1984年。

ヘルシンキ・フィルは、私が初めて聞いた外国のオーケストラである。オッコ・カムという指揮者がこのオーケストラと来日し、全国各地を回りながらシベリウスの作品を演奏した。当時中学生だった私は、学生席というのをプレイガイドで購入し、友人とともに大阪フェスティバルホールへ出かけた。交響詩「フィンランディア」に始まり、第2番、そして第5番という有名曲の日だった。シベリウスの交響曲を聞くのはほとんど初めてで、家にあったカラヤンのLP(フィルハーモニア管)を慌てて聞いてメロディーを頭に入れたが、何か素気ない演奏に聞こえたのは録音が古かったからだろう。

ヘルシンキ・フィルというのも初来日で、1982年2月のことであった。この時の記憶は今でも残っている。しかし演奏についてはよく覚えていない。ただこの演奏の模様は民放FMで放送され、のちにCDにもなっている。おそらく名演だったのだろう。しかしヘルシンキ・フィルという団体は、北欧では最も長い歴史を誇るらしいが、当時はほとんど無名だった。技術的にも日本のオーケストラとあまり変わらないレベルに思えた。少なくとも私がその翌年に聞いたイスラエル・フィルなどとは大きな落差があった。特に弦楽器の厚みは当時の日本のオーケストラと同様やや薄かった。だがシベリウスの交響曲に関する限り、それはそれでフィンランド独特のムードを表現するに遜色はなく、それがゆえに私には不満はないどころか、初めて聞く来日オーケストラに随分と興奮した。思えば当時は、1回1回のコンサートが一大事で、私はそれこそ前日、いやそれ以前からそわそわとしていたほどだった。

そんな思い出のあるヘルシンキ・フィルと、ベルグルンドはシベリウスの交響曲全集をデジタル録音した。ここで聞ける温かく、ふくよかな表情に満ちた演奏は幸せな気持ちにさせてくれる。他の表現も可能だと思うが(実際、カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏は、ロマンチックなうねりが終始続いて圧巻である)、これはシベリウスの演奏のひとつの標準ではないかと思う(1回目の全集は聞いたことがなく、3回目のヨーロッパ室内管弦楽団との演奏は、より新しい録音でシャープに聞こえる点が好ましいと思うかどうか)。

さて、交響曲第7番は次第にクレッシェンドする上昇音程から始まる。良く聞くと後ろでティンパニが鳴っており、ここを大袈裟にドラマチックに表現する指揮者もいるが、ベルグルンドはさほどでもない。静かで厳かな最初の部分が続いて、緊張が頂点に達すると、まるで分水嶺を超えたようにピチカートで音程が下降する。ここの表現をいかに印象的にやるかが私のひそかな聞き所なのだが、ベルグルンドは目立たない。やがてスケルツォ風とも言える次の部分へと入ってゆく。

この交響曲で終始活躍し、かつ印象を残すのはトロンボーンの演奏である。時に厳かで、時に広い空間を想起させるこの金管楽器の響きは、ベルグルンドの演奏で聞くと(録音のせいもあるが)どこか温もりがあって、北欧の厳しい自然がほっこりとしていることに安堵する。ハ長調というのが大地の広がりを見せるが、例のごとくそこに色はない。このようにこの作品を北欧の自然と結び付けて聞くのは勝手だが(シベリウスはいつもそうしたくなる)、かといってこの曲は標題音楽ではない。様々な要素が混じりあっているため、短いながらも単純な想像の域を超えてしまうところが、この曲の魅力だと気付く。わずか20分余りに長さの中に、多くの音楽的要素を内在させつつ非常にシンプルで無駄がないところが、この曲の凄いところだ。

シベリウスの交響曲について書くことは、大変労力のいる作業だった。どの作品もその魅力を文章にするのがとても難しいと思った。これが標題音楽だったら、その具体的事物について理解し、そこから音楽に入って行ける。だが交響曲だとそうはいかない。しかもその作品はいずれも骨格ある形式を有してはいないどころか、極めて自由な筆致で書かれている。演奏もどういうものを基準にするとよいのかよくわからない。シベリウスを得意とする指揮者がいる一方で、まったく演奏しない指揮者も多い。シベリウスは演奏者を選ぶ作曲家だと思う。

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