2024年3月3日日曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第654回定期演奏会(2024年3月2日すみだトリフォニーホール、秋山和慶指揮)

齢50歳をとうに過ぎた男が、甘く切ないラフマニノフの音楽に落涙するなどといった恥ずかしいことがあるだろうか?だがそういうコンサートだった。ラフマニノフの音楽がかくも美しく響いたのを聞いたことがない。それをそつなくこなす指揮も職人技だが、オーケストラ、特に木管楽器の素晴らしさといったら!新日本フィルがこれほど巧いと思ったことはないが、このオーケストラも世代交代が進み、実力を上げつつあるような気がする。それだからか、チケットの売れ行きもいいのではないか。昨年音楽監督に就任した佐渡裕の功績があるのかも知れない。

昨年の2023年はラフマニノフの生誕150周年にあたり、かの作曲家の作品が数多く演奏されたが、私はついに一度も聞く機会に恵まれなかった。特に交響曲第2番は、数ある作品の中で最も有名な曲であり、私は一度聞いてみたいと思っていた。この作品は一年中どこかのオーケストラによって演奏されるような人気のある曲で、これまで一度も聞いてこなかったのが不思議なことなのだが(というのは嘘で、記録によれば過去に2度聞いている。だが記憶にない)。

先週になって新日本フィルから一通の電子メールが届き、この交響曲第2番が演奏される3月2日と3日の定期演奏会に、当日券が発売されることを知った。よく見ると秋山和慶が指揮をする。これはちょっと驚きで、私は家族が旅行に出かけて留守番をしている時だから、行こうと思えば行ける。私は嬉しくなった。問題は体調だが、前日に同じ墨田区の両国国技館の近くで、友人とお酒を飲んだにもかかわらず比較的元気である。一般に同じプログラムのコンサートが複数の日程で行われる場合、どちらを選択すべきかは難しい問題である。今回も3月3日の方が、私の家に比較的近いサントリーホールでのコンサートなので、通常ならこちらを選択するところだが、直前まで迷った挙句今回は早く聞いてみたいと思い、錦糸町まででかけることにしたのだ。

会場は上岡敏之のブルックナーの時と違って落ち着いた雰囲気であり、相当数の席が売れ残っていた。全体に静かで、カフェでコーヒーなどを飲む人も少ない。日本人指揮者の地味なプログラムだからだだろうか。その前半は細川俊夫の「月光の蓮~モーツァルトへのオマージュ~」というピアノ協奏曲(ピアノ独奏:児玉桃)である。日本人の現代音楽の作品は、最近よく取り上げられるようになってきてはいるが、一般的にはなかなか敷居が高い。かくいう私も細川俊夫自体、初めて聞く。

細川はヨーロッパで活躍する日本人作曲家で、我が国よりもドイツでの知名度が高いのではないか。この「月光の蓮」も2006年、モーツァルトの生誕250年の年に、北ドイツ放送交響楽団の委譲により作曲された作品である。プログラムによればその時の条件として、モーツァルトのピアノ協奏曲から1曲を選び、それと同じ楽器編成で演奏できること、ということだったらしい。細川は第23番を選び(K488)、第2楽章からインスピレーションを得てこの作品を作曲した。どうして「蓮」なのか。そのあたりの説明は解説書に任せるとして、この初演時のピアニストが今回の独奏も務める児玉桃であ。私は彼女の演奏に過去一度だけ接している(プレヴィン指揮N響によるメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」、2011年)。

児玉のピアノは、さすがのこの曲を初演しただけに完全に手中に収めている。同様に手慣れた曲であるかのようにしっかりと寄り添うオーケストラもまたプロフェッショナルなものを感じた。「蓮」は仏教の世界観に通じ、その東洋的な音色は時に特徴的なトーンを発するのが印象的だったが、20分あまりの曲の間中、月夜の明かりが照らされる幻想的な世界が全体を覆っていた。

美しいとか神秘的というよりもむしろ、静寂の中に潜む「静」の光景を見ている側の精神性を試されるようなところがある。これは日本人であれば、共通して感じるようなものがあるように思うが、西洋音楽として表現された場合に、ヨーロッパでどういう受け取り方がなされるのかはわからない。そんなことをぼんやりと考えていたら次第に眠くなってきて、気持ち良い心地であった。ところが曲が終わりかけた頃に、ピアノがあのモーツァルトのフレーズを演奏したものだから(K488の第2楽章の主題)、一気に目が醒めた。月夜が照らす蓮の小池の風景が、モーツァルトの旋律によってリアルに眼前に現れたのである。

20分の休憩を挟んでいよいよラフマニノフである。オーケストラも打楽器を含めて舞台に勢ぞろい。もう80歳を過ぎた秋山はしっかりとした足取りで舞台に登場。そういえば小澤征爾と同じ斎藤秀雄の門下生として「サイトウ・キネン・オーケストラ」の最初のコンサートを指揮したのは秋山和慶だった。小澤ほどの世界的な人気はないが、秋山の音楽はしっかりと堅実、これまでのコンサートはすべて記憶に残る名演奏だった。その秋山が、先月逝去した小澤が設立した新日本フィルの定期に登場するのは珍しいのかも知れない(秋山和慶といえば、何といっても東京交響楽団である)。

最近はX(旧Twitter)でコンサートの感想をいち早くつぶやいたり、関係者がプロモーションを行うことが多い。この日もコンサートマスターの崔文洙がリハーサルの様子を伝えていた。それによれば、このコンサートを聞き逃すと後悔する、といった内容で、私はこの文章に心を動かされたのは確かである。そして今日のラフマニノフは、そのことを全く裏付けるものだった。

第1楽章の冒頭から、その完成度の高さに驚いた。よくあるような尻上がりに調子を上げる、というものではなく、まさに最初からアンサンブルは素晴らしく、確固たる足取りである。私はこれまで「すみだトリフォニーホール」で名演奏に出会ったことはほとんどなかったのだが、今回は1階席の後方左端という条件にもかかわらず、オーケストラの音はバランスが良く、各楽器も埋もれずに聞こえる。これは指揮者の功績以外の何物でもないだろう。

第2楽章のスケルツォも大変充実した出来栄えで、たっぷりと堪能することができたが、続く第3楽章のメロディーに至っては聞いているうちに胸が熱くなった。この曲は最高のムード音楽だなどと思っていたが、それもかくも完璧に演奏されると圧巻である。クラリネットの独奏がことのほか綺麗で、フルートとオーボエも遜色がない。金管楽器もロシアの大地を思わせる。それらが破綻せず、絶妙のブレンドのまま高揚したかと思うと、また静かに感傷的なメロディーを受け継ぐ。

ラフマニノフの音楽は、ロマンチックで甘美なロシア音楽の情緒を継承しつつ、ドイツ=オーストリア系の構成論理も融合した作品を生み出した、とブックレットには書かれていた。音楽的にはそのように解釈すべきなのかも知れないが、素人的に言えば、最高のムード音楽もしっかりとした音楽として成立しているからこそ聞きごたえがあるのだろう。うっとりとする時間が十分に長く続き、さらには第4楽章で打楽器も交じる高揚感に包まれる。ゴージャスなクラシック音楽の醍醐味が、ここに尽くされている。それを余すことなく表現する指揮とオーケストラに、私は打ちのめされたと言って良い。

拍手は醒めてはいないものの、総じて熱狂的でもなかった。だが温かい拍手が続く間、指揮者とオーケストラは満足感に溢れていた。あまりに感動的だったので、再度明日のコンサートにも出かける人がいるかもしれない。だが私は、今日以上のコンサートになるとも思えない。そんな完成度の高い新日本フィルの今後の演奏会が注目される。帰宅して検索してみると、来週の井上道義指揮によるマーラーの交響曲第3番は、すでに完売していることがわかった。そしてその翌週、今度は上岡敏之が登場する。金曜日のマチネとなると空席だらけかと思いきや、残りわずかとのことである。私は慌てて、この日のコンサートのチケットを予約しておくことにした。シューベルトの「グレイト」交響曲など、いまから大いに楽しみである。

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