もらったプログラムを見ながら、チョコレートのことを考えていた。妙なことに、それは今日のプログラムに似ていたからだ。つまりブラームスの交響曲第1番は、まるで並べられたダーク・チョコレートのように、凝縮された原料が時に芳醇な香りを主張しつつ、一見しただけではわからないような色の変化を楽しむさまであるのに対し、ストラヴィンスキーの組曲「プルチネルラ」は、その包装紙のようにくっきり明瞭な赤や黄、緑といった色が、まるでピート・モンドリアンの絵画のように幾何学的に配置されているような曲に思えたからだ。
素人の変な思いつきにも、少し根拠はある。すなわちこれらの2曲はいずれも、その時代に反してより古典的な様式を取り入れている点である。ブラームスは長い年月をかけて、バッハからベートーヴェンを経てロマン派に至るあらゆる音楽を研究し、古典的様式にのっとって最初の交響曲を作曲したことはいう間でもなく、ストラヴィンスキーはペルゴレージの音楽を模倣して「プルチネルラ」を作曲し(もっそもそのペルゴレージの作品も偽物だった)、いわゆる「新古典主義」の魁となった。いわば2曲とも、ロマン派後期において過去の様式を模倣して作曲された作品という共通点がある。だがその2曲は、上記で述べたように対照的である。これらを同じ日の演目に並べるのが面白いところである。
さて、ロシアの指揮者トゥガン・ソヒエフは毎年1月、NHK交響楽団に客演するのが恒例なっている。かつては優秀な若手指揮者として、十八番のロシア音楽やフランス音楽中心のプログラムが多かったが、最近はベルリン・フィルやウィーン・フィルにも毎年のように登場し、その多忙さは想像に難くない。にもかかわらず我が国に1か月近くも滞在し、今回も3種類のプログラムを振ってくれる。私はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」(A定期)を聞きたかったのだが、あの広いNHKホールが2日とも満席になるという異常な人気で諦めざるを得なくなり、サントリーホールで開かれるB定期も発売数が非常に少ないため断念。残った選択肢としてC定期を買い求めることとなった。なぜかこの日は多くのチケットが残っていた。
ソヒエフは今や、ドイツものもレパートリーに加えつつあるようだが、彼とブラームスの相性は悪くないと思われた。その理由は、私がソヒエフの音楽に感じるフレーズごとの、しっかりとした音色と音量の変化(それは天才的と言ってもいい)が、まるでチョコレートの風味や色合いのような微妙な違いを完璧に表現する様子が想像できたからである。けだしそれは正しかった。交響曲第1番の冒頭のティンパニ連打に始まる弦楽のうねりは、その一音一音が異なって聞こえた。2階席の奥という、サントリーホールならもっとも遠いような席にも、それは明確に伝わって来るのだった。
各ソロパートが大活躍するのが、この曲の聞き所である。そのクライマックスは第2楽章中盤のヴァイオリン・ソロである。3月をもって退団するマロさんこと篠崎史紀氏がコンサート・マスターを務める定期公演は、これが最後とのことである。おのずと注目が集まるその部分で、実に高らかかつ伸びやかに、確信を持って鳴り響いた時は会場の空気が変わった。例えようもなく美しかった。第3楽章でのクラリネット、第4楽章でのホルンやフルートもさることながら、この瞬間が本公演の白眉だったと言える。演奏が終わって真っ先に立たせ、あるいはオーケストラが退場してもなお拍手に応えるべく再登場した指揮者は、彼を連れてきた。
第4楽章で、あの有名な「第九」風のメロディーが聞こえてくるときも、そこだけを強調する指揮ではなかった。ごく自然に音楽は流れ、クライマックスを築いた。惜しむらくはNHKホールというところ、結局正面の前方で聞いていないと、臨場感が味わえないと思う。結局このホールは、オーケストラにとって広すぎるのである。それでも大きなブラボーは3階席から轟いた。檀ふみ氏が語っているように、もしかしたら3階席の最前列が「隠れた最高の位置」なのだろうか。だがここの席は真っ先に売り切れるので、私は一度も座ったことがない。「プルチネルラ」の方もソヒエフ流の職人技が光った演奏だった。だが本公演ではやはりブラームスに多くの時間を割いて、音楽を作り上げていたように思う。この曲、私は2回目である。良く考えてみると、私はストラヴィンスキーの作品をまだ取り上げていない。ブラームスの交響曲と合わせて、今年中には書き終えたいと誓った今年最初のコンサートだった。
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