2026年8月18日火曜日

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それをモロッコからモーリタニアに続く砂漠地帯を舞台に展開する。

有楽町にあるそこそこ広い映画館に座った私を、重低音のリズムが襲った。映画が始まって長い間、容赦なくそれが続く。振動は四方八方から聞こえてくる。やがてそのリズムに合わせて自然に体が動き、勝手勝手に踊りだす。「レイブ」と呼ばれるらしい。Wikipediaによれば、主に1980年代後半から1990年代初頭にかけてイギリスで流行した若者文化で、麻薬との併用によってエクスタシーを得るようなパーティーが盛んに行われた。スクリーンではモロッコの砂漠で、レイブのパーティーに集まったヨーロッパの若者たち。いずれも、浮浪者、あるいは世捨て人のような人たちで、それぞれの背景はよくわからないが、世間から離れ、もはや生きる意味など失ってしまったような風貌である。だが考えてみれば、いつ自分がそうならないとは限らないのが、今の世の中ではないか。

この映画には、ヨーロッパで始まった第三次世界大戦のニュースと、迫りくる軍事組織が時に登場する。レイブ・パーティーに参加する若者は、そこから逃げ惑うように自動車を走らせ、次の会場を目指す。辛うじて現世の中を生きている。

一方、まだ世捨て人にまでなったわけではないスペイン人の主人公ルイースは、愛する娘がレイブに参加すると言って家を出て行ってしまったらしい。彼は息子のエステバンを伴ってモロッコの砂漠に出かけ、写真を見せては消息を尋ねるが、誰も知らない。しかし、別の場所で次のパーティーがあると聞き、移動する一隊に加わる。人目を避け、目的地に着くまでの行程は、狭い急斜面の道の連続で困難を極める。パンフレットにあるような「父が娘を探すロードムービー」とは桁違いの描写が続く。そして幾度となく繰り返される重低音の音楽も。

次のパーティー会場まで、いったいどういう風に行くというのだろう。あまり計画性はなく、行き当たりばったりのようにさえ見える。いや、彼らはすでに死後の世界との境を歩いているのだということが、次第にわかる。そして突如起こる事故や事件に、見る者は震撼し、目を覚ます。主人公を含め最後まで登場人物の背景も関係もわからない。極限状態に置かれ、人間が取りうる行動の選択肢がなくなっていく悲しさと、それを宿命として受け入れなければならないと悟る、死の直前の恐怖。それにしても一体何を描こうとしているのだろう。見終わると疑問が長く続く。そんなことを深く考えさせられるこの映画は、カンヌ国際映画祭に出品され、4冠に輝いた。 

2026年8月17日月曜日

映画:「大統領のケーキ」(2025年、イラク・アメリカ・カタール)

私にとって湾岸危機(1990年)と、それに続く湾岸戦争(1991年)は衝撃的な事件だった。ちょうどそのころ、夏の間だけ私はスイスに滞在していて、帰国の際にはイスラエルやエジプトなどに寄って帰ろうとしていたからだ。しかしサダム・フセイン(イラク)がクウェートに侵攻すると、多くの西側諸国の市民を人質にとった。その中にもちろん日本人もいた。

湾岸戦争が起こっても、フセインの独裁政権はなくならなかった。しびれを切らしたアメリカは、大量破壊兵器を増産しているとしてイラクを攻撃(2003年)することになるが、それまでの間も延々と恐怖政治は続き、外国からの経済制裁がさらに追い打ちをかけた。圧政下で犠牲になるのは、いつも無名の一般市民、それも弱い立場の人々である。ただでさえ過酷な砂漠の国で、貧しい暮らしを耐えしのぐのは容易なことではない。特に老人や子供にとって。

南部メソポタミアのデルタ地帯に住む若干9歳の少女ラミアは、すでに両親を失い、祖母と2人で極貧生活を送っている。ある日少女は、学校に遅刻しただけで、昼食として持参したリンゴを先生に盗まれる。見ていてそれだけでも腹が立つのだが、軍事政権下の学校は、それ自体が体制維持の容赦なき隷属装置となっている。権力に歯向かうと市中引き回しの刑が待っている(実はこれは、江戸時代や太平洋戦争中の我が国とさほど変わらない)。そんな中でラミアは、あろうことか大統領の誕生日を祝うケーキを作る担当にさせられてしまう。

フセインは全国の学校に、自らの誕生日を祝うケーキを作るよう命じていたのである。これに何の根拠もないし、そもそもケーキを作るにも材料が不足していて手に入らないし、お金もない。しかも、たった2日間で仕上げる必要があるのだ。そこに追い打ちをかけたのは、高齢の祖母がもはや仕事を続けられなくなるという事態だった。祖母はラミアを町に連れて行き、彼女を養子に出すことにする。しかし彼女はその怪しい様子を嗅ぎ取って脱走する。愛する雄鶏ヒンディを伴って。ここまでは、検索すると表示される「ネタバレ」以前のあらすじである。

差し支えない範囲でもう少し書こう。彼女には同級生の男の子の友人サイードがいた。彼は父親に連れられて遊園地でスリの手伝いをさせられているのだが、逃げたラミアはそこに合流し、一緒にケーキの材料を探すことになる。わずか1日の間に、材料を探し回る2人の小学生と、ラミアを探す祖母の様子が描かれてゆく。だが、極度の食糧難のイラクにあって、誰も手など差し伸べてくれない。それが、たとえあどけない少年・少女であっても。

この映画のポスターに「実話から生まれた感動作」などと書かれている。「感動」を『広辞苑』で調べると、「深く物事を感じて心を動かすこと」とだけ書かれていて、それはポジティブな局面だけでなく、ネガティブな局面でも使われる可能性を排除していない。しかし一般に人々が「感動する」というとき、それはいい意味でのことである。こういうとき「新明解国語辞典」(三省堂)の出番である。そこにはこう書いてある。「美しい行為・話・芸術作品などを見たり聞いたりして、人間の理想に触れた感じがして、充足感を覚えること」。

後者の解釈に従えば、この作品を私は決して「感動的」だとは思わない。いや、むしろその逆で「絶望的」である。なぜなら、登場する人物のほとんどすべてが悪人なのである。大人たちのような立場の人間でも、平気で子供をいじめ、搾取し、罵倒する。長く続く独裁政治と貧困が、いかに人々の心を荒廃させているか、その様子は容赦ない。それでも子供たちは健気に生きている。そして彼らに手を差し伸べてくれる大人が、まったくいないというわけでもない。偶然にもたらされるそれが、わずかな救いである。

この映画のトーンは砂漠のように極めて乾燥しており、感傷的なシーンなど皆無である。そのことが一層リアルに、見ているものの心を突き刺す。登場人物はすべて素人から採用されたという。監督の実経験をもとに、圧政下のイラクで起こっていた様々なエピソードをつなげた本作品は、カンヌ国際映画祭で2つの賞を受賞した。実話をベースにしている点で、そして今もなお戦禍の絶えない中東で起こっているであろう庶民の耐え難き生活は、この映画のような感じだろうかと貧弱な想像を働かせたりするが、それは我が国がかつて辿った道でもある。

ケーキは辛うじて完成し、当日学校へ持参するが、そこにとんでもない事態が生じる。その内容は書かないが、この映画のひとつのキーは、ラミアとサイードが時に行う「にらめっこゲーム」である。瞬きをした方が負けという単純なものだが、これが何を意味しているのだろうか。最後のシーンを見ながら、そのことを考えた。そしてこれは、独裁政治というものがどれほどの悲惨な状況をもたらすのか、ということを主題としながら、そこに空爆を繰り返す米国の大義なき戦争をひそかに批判しているとも言える。このたびの米国によるイランへの軍事作戦の結果、イラクは石油の輸出量が激減し、国内経済は崩壊寸前だと言われている。イラク人の監督によって、このような映画が作られたことは画期的である。だが、その状況は現在でも続いていることを忘れてはならない。

2026年8月16日日曜日

下野竜也プレゼンツ!音楽の魅力発見プロジェクト第13回(2026年8月15日すみだトリフォニーホール)

チケット予約サイトを見ていたら目に留まったのがこのコンサートだった。下野竜也が自ら企画し、司会を務め、新日本フィルを指揮するらしい。すでに13回目というが、私はこのような企画があったことをこれまで知らなかった。よく見ると、今年の出し物はブルックナーの交響曲第4番「ロマンチック」(ハース版第2稿)である。それは何と終戦記念日であるお盆真っただ中の8月15日。真夏にのんびりブルックナーに耳を傾けるのも悪くないな、などと考えた。いわば「レクチャー・コンサート」だからチケットも安い。

まあ素人向けの気さくなコンサートを思っていた。実際、前半に行われた「特別レクチャー」では、ホール前面のパイプオルガンを覆い隠すように大きなスクリーンが設置されている。マイクを持って登場した下野は、まず滝廉太郎の「花」を演奏し、隅田川とブルックナーの関係を説明(!)した。「徹底解剖」というほどのアカデミックな話は一切なく、時折冗談を交えながら、楽しいトークとなった。こういうコンサートなら、オーケストラも気さくにやっているのだろうと思っていた。しかし、後半に行われた全曲の演奏は、素人騙しのレベルなどではなく、ブルックナーの魅力を引き出す大名演だったと思う。うちとけた雰囲気が、かえってオーケストラの気持ちに余裕を持たせ、そのことが演奏を自然な形で立派なものにした。その手腕はもちろん、指揮者にある。

私は今回、前方の真ん中という絶好の位置に座ることができ、真っ白な衣装のオーケストラを壮観に眺めることができた。それは対向に配置され、左右のヴァイオリンがシンメトリックに響く。奥からは低音のコントラバスと管楽器の数々。教会に勤めたブルックナーの音楽には、その対称的な響きが相応しいと考えた。唯一の不満は、前に座った人の背が高く、丁度指揮者だけが見えにくかったことだ。だから音楽に集中した。そしてその音楽は、これまで何度聴いたかわからないこの曲の魅力を、再発見するものだった。

もしかすると下野竜也は、ブルックナーと相性がいいのかも
しれない(すでに「第00番」以外の曲はすべて振っているそうだ)。ただ、この長い曲の魅力を徹底解剖するには、少し時間が足りなかった。ブルックナーの交響曲全体を俯瞰するのであれば、もう少し他の作品や版の違いにも言及してほしかった気もする。いや、これはむしろ、夏休みに地元の方々を招待して行われるポピュラーなコンサートと理解すべきか。まあ彼自身「一切のクレームは受け付けません」とジョークを飛ばしながら、心からコンサートを楽しんでいるように見えた。

新日本フィルは楽団員が若返り、佐渡裕の時代になって技術的に巧くなっているように感じる。最後に来年度の演目を少し演奏したが、それは何とベートーヴェンの「第九」だった。このさわりだけの演奏もなかなか立派だったが、これは行かねばならぬ。思わぬところで見つけた真夏のコンサートに満足した一日だった。

2026年8月1日土曜日

ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番(シェーンベルク編)(ミヒャエル・ザンデルリンク指揮ルツェルン交響楽団)

シェーンベルクが編曲したブラームスのピアノ四重奏曲第1番は、実に面白い曲だ。第1楽章の出だしはまさにブラームスの音楽そのもので、「本人がオーケストレーションを書いた」と言われても疑いようのないムードで始まる。しかし、それが徐々に変化してゆき、やがてブラームスの作品では見られないような楽器が顔を出し始める。最終的にはスケールが豊かに拡張され、色彩感あふれるダイナミックなオーケストラ曲として締めくくられる。決してシェーンベルク自身の作風に変貌するわけではないのだが、ブラームスの元の楽想からは確実に解き放たれていく。

ブラームスを敬愛してやまなかったシェーンベルクが、この若きブラームスの傑作の編曲をオットー・クレンペラーに勧められたのは、彼がアメリカ西海岸へ移住した頃のことである。このときすでに60歳を過ぎていた。シェーンベルクは編曲の理由について、「私はこの作品が好きだが滅多に演奏されず、しかも優れたピアニストが演奏するとそのパートが強調されすぎてバランスが崩れてしまう。全てのパートが均等に聴こえるようにしたかったのだ」と語っている。さらに「ブラームスの書法を忠実に守り、もし彼が今オーケストレーションを施したとしても、同じ結果になったはずだ」と付け加えた。楽曲の構造自体はそのままで、音符を変えるような操作は一切行っていないという。だが、実際の響きを耳にすると、この言葉はにわかに信じがたい。

では、実際どのようにしてブラームスの音楽が変貌を遂げていくのか。それこそが、この曲を聴く最大の大醍醐味だ。原曲を知らなくても、ブラームスの音楽に親しんだ人なら「えっ、ブラームスの曲でこんな楽器使う?」と驚く瞬間が必ず訪れる。だが、これは本当にシェーンベルクが狙った効果なのだろうか。何度も聴き込むうちに、私は「これこそがまさに彼の意図だったのだ」と確信するようになった。

なぜなら、「ブラームスからの逸脱」は早くも第1楽章の終盤で姿を現すからだ。もっとも、主題があまりにもブラームスらしくロマンチックなため、一見すると気づきにくい。続く第2楽章の流れるようなメロディも、聴き始めはまさにブラームス的でこの上ない。しかし、中間部を過ぎたあたりで、ブラームスらしからぬ打楽器たちがひょっこりと顔を出す。

しかし、ブラームスらしさの枠にとどまっているのは第3楽章の冒頭までだ。出だしこそ牧歌的でブラームスそのものなのだが、途中から行進曲風の展開になると、多彩な打楽器群が登場して独特のムードを醸し出す。聴いていてとにかく楽しいのだが、「あれ、自分はいま誰の何という曲を聴いていたんだっけ?」と一瞬我に返ってしまう。もっとも、それもしばらくすると、まるで壮大な交響曲のような響きへと引き戻されるのだが。

シェーンベルクは、自身が切り開いた十二音技法のような現代的テクニックをここで駆使しているわけではない。にもかかわらず、ブラームスの時代からほんの少し先の未来にある音楽の予兆を見事に捉えている。原曲の魅力を損なうことなく、もしブラームス自身が編曲していたら決して生まれなかったであろう音楽へと仕立て上げているのだ。そもそもブラームスの原曲にそれだけの深さがあり、すでに新しい時代の芽を蓄えていたことを、シェーンベルクが誰よりも熟知していたからにほかならないからではないだろうか。

終楽章は、元々ジプシー風のロンド(ハンガリー風)である。原曲のままでも目まぐるしいリズムの変化が絶妙で実に楽しいのだが、シェーンベルクの見事な管弦楽法によって、まるでピアノ連弾用の『ハンガリー舞曲』が絢爛豪華なオーケストラ曲へと生まれ変わった。全編がまさにチャルダーシュの熱気に満ちあふれており、ここでもブラームスの他の作品ではお目にかかれないような楽器が登場して、ちょっとした興奮をもたらすこと請け合いである。何の楽器が飛び出すかは、実際に聴いてのお楽しみとしておこう。

シェーンベルクによって新しい時代の光を浴びたブラームスは、不思議で格別な魅力を放つようになった。近年でこそ演奏される機会が増え、それに伴って原曲の魅力も再発見されているが、録音の数となるとまだまだ少ないのが現状だ。名盤として名高いドホナーニ指揮ウィーン・フィル盤も捨てがたいが、個人的には、実演を聴く機会に恵まれたミヒャエル・ザンデルリンクによる新しい録音を名演として推したい。

ザンデルリンクと言えば、シュターツカペレ・ドレスデンと歴史的名盤であるブラームス交響曲全集を残した名指揮者、父クルト・ザンデルリンクの姿が思い浮かぶ。息子であるミヒャエルは、当初特に音楽家になることを期待されていたわけではなかったようだが、気がついてみれば3人の兄弟全員が指揮者として活躍しているのだから、血筋というのは面白いものだ。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...