私の「チェネレントラ」との出会いは、「セヴィリャの理髪師」よりも早い。90年代の前半、この曲の決定的とも言える録音が出現したからである。チェチリア・バルトリが標題役を歌い、リッカルド・シャイーが指揮するDECCA盤がそれである。当時の私はロッシーニと言えば、いくつかの序曲くらいしか知らなかったので、オペラ全曲盤のCDはロッシーニはおろか、他のオペラも数えるほどしか所有していなかった。
ところがこの録音はすこぶる評価が高く、内外の音楽雑誌を絶賛させていたし、確か何かの賞にも輝いた。そんなにいいのならひとつ買ってやろう、と私は2枚組のCDを、曲も知らずに買ってしまった。新譜だったので結構高かった。けれども序曲が始まるや否や、そのあふれんばかりの輝かしい音の連続に、耳を洗濯されたかのような錯覚にとらわれたのである。6畳一間の会社の独身寮で、私は毎日この曲を聴き続けた。バルトリだけでなく他の歌手達も素晴らしいし、それになんと言ってもシャイーのスマートでテンポのいい指揮と、それを捉えた見事なブリリントな録音が、今もってこの曲のベスト盤としての地位を確保している。
当時、シャイーの前にはクラウディ・アバドによるロンドン交響楽団の演奏が唯一と言っていいくらいに知られていた。この演奏は、この曲の評価を世間に知らしめた画期的な演奏だった。アバドの演奏には、後年ビデオに撮影されたもの(こちらは確かスカラ座)もあって、それはテレビでも放映されたから私はテープに撮って見たことがある。シャイーの録音で聞いた音楽が、このような作品だったかと改めて知ることになるその演出は、ジャン=ピエール・ポネルによる才気に富んだもので、今持ってこの曲の代表的な映像である。
この代表的な2つの録音に勝るとも劣らない成功を収めたのではないかと思われるのが、今回MET Live in HDシリーズの今シーズンのトリを受け持った「チェネレントラ」であったと思う。豪雨の中を東劇まで見に行ったのは数日前のことだが、未だに私の頭の中には、ロッシーニのクレッシェンドが鳴り響いている。鮮烈さにおいてファビオ・ルイージの指揮は、シャイーには及ばないが、映像を伴っていることで見応え十分であり、アバド盤にないライブの良さがあるのと、アバドよりも即興性と愉悦感において優っていると思われる。
標題役はアメリカ人のメゾ・ソプラノ、ジョイス・ディドナートである。それにお似合いの王子役には、これまた当代一のベルカント・テノール、フアン・ディエゴ・フローレスが受け持つ。今回がこの役を歌うのが最後だと宣言したディドナートは、この役を当たり役とし世界各地でフローレスとのコンビを披露している(マドリードでの映像がリリースされている)。ディドナートとフローレスはここ数年のMETにおける一連のベルカント物の定番歌手で、私もこれまでにロッシーニでは「オリー伯爵」(イゾリエとオリー伯爵)、「セヴィリャの理髪師」(ロジーナとアルマヴィーヴァ伯爵)、それにドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」(マリア)など数々の名演に接してきた。
ディドナートは叙情的ながら力強くもある歌声で、めくるめくベルカントの世界を表現した。私の文章力だと実感がうまく伝わらないので、松竹のホームページに掲載されたニューヨーク・タイムズ紙の現地評を引用させていただくと、彼女は「まばゆい魅力に溢れ、勇敢で、愛すべき感動的なシンデレラをMETで演じ、大成功を収めた。彼女は茶目っ気たっぷりに微笑みながら、超絶技巧を次々と繰り出し、胸の底から響く低音域からキラリと光る高音に軽やかに歌い上げた」。
フローレスの見事さについても、わざわざ私がつたない文章を書く必要はもはやないと思う。最大限の喝采をさらった彼の歌声は、第2幕のアリア「誓って彼女を見つけ出す」で最高潮に達し、とうとう鳴り止まぬ拍手に答えて再度舞台に姿を現すという(近年あまりない)状況に至った。
それ意外の歌手についても不満はほとんどない。意地悪な義姉妹、クロリンダとティスベは共にアメリカ人でソプラノのラシェル・ダーキンと、メゾソプラノのパトリシア・レスリーによって歌われた。彼女たちの意地悪さは見ていてもちょっとしたもので、役になりきっている様はインタビューの時のやりとりやカーテンコールにまで演じきる力の入りよう。一方、3人のイタリア系男声陣、すなわち彼女たちの父親ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリ(バリトン)、王子の従者ダンディーニのピエトロ・スパニョーリ(バリトン)、それに王子の先生で哲学者のアリドーロのルカ・ピザローニ(バス・バリトン)は、いずれもベテラン・イタリア人としてきっちり脇を固めていた。
演出(チェーザレ・リエーヴィ)は寓話的で、この物語が「シンデレラ」であることを意識していると思う。見せ場は空を飛ぶロバ、嵐のシーンでの光と炎、それにフィナーレでの巨大なウェディング・ケーキである。やりすぎれば安っぽくなるのだが、丁度その前で止まった。そういえばソファの足が一本折れていて座るたびに傾く演出も笑いを誘ったし、第2幕の6重唱「これは絡みあった結び目」では並んだ6人をひとつの紐で王子が結んでいきながら歌う。見ていて何とも楽しいのは、映像があるからだ。
ファビオ・ルイージの指揮について。この公演の成功の鍵は、指揮者にもあるだろうと思う。ルイージはロッシーニの指揮のコツについて「急ぎ過ぎないこと」と答えている。彼は前日夜に「蝶々夫人」を振った後、このMET Liveに登場し、その後夜にはアムステルダムに向けて出発するそうだ。よくそんな体力が持つものだと感心するのは、インタビューアのデボラ・ヴォイトしかりである。ルイージは本作品を初めて指揮するとは思われないほど、つぼを心得ていたように思う。重唱の多いこの作品で、歌のアクセントが極めてよく揃え、音楽が弛緩することなく続く。第1幕の「静かに、静かに」あたりから続くフィナーレなど、見ていて惚れ惚れするような歌の連続は、この堅実な指揮によって可能となったと思われる。
総合的に考えて、現在望みうる最高の出来栄えとなった「チェネレントラ」は、今シーズン最後を飾るに相応しい大成功だった。見終わった時、美味しいものを満足行くまで食べたような幸福感に見舞われた。同行した友人のM君と豪雨の中を近くのバーまで歩き、興奮醒めやらぬ気分でビールを傾けた。私は彼に仕事を少し休んででも6時半の開演に間に合わせるようにと忠告し、彼は正確にそれを実行した。「みんなつまらない仕事をしているが、私達はロッシーニのオペラの楽しさを知っているというだけで密かな優越感にひたれるじゃないか」と語り、「どうせ頑張って出生し、金持ちになっても、やりたくなるのはオペラを見ることさ。それなら今日もやっているじゃないか」などと言い合った。彼は「誰もが偉くなれるわけじゃないし、そうなったとしても健康であるとは限らない」と応じてくれた。
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