オペラを見なければ触れることのできない作曲家というのがいる。ヴェルディやワーグナーはまだ良いほうで、ヴェルディなら「レクイエム」だけでも十分感動的だし、ワーグナーなら前奏曲集や「ジークフリート牧歌」といった名曲を楽しむことは容易である。だが、プッチーニやベッリーニといったあたりになると、これはもうオペラしか作曲しなかったような作曲家だから、音楽に触れるにはオペラを聞くしかない。マスネも、どちらかと言えばそんな作曲家の一人である。
ジュール・マスネは19世紀後半に活躍したフランス人である。そして「マノン」は円熟期の最初を飾るオペラと言われるが、他の有名作、例えば「タイース」も「ウェルテル」も、それぞれエジプト、ドイツを舞台にしているのと異なり、フランスを舞台にしたオペラである。つまりフランス人によるフランスのオペラである。
そう思いながら聞くと、ビゼーの「カルメン」も、オッフェンバックの「ホフマン物語」もフランスを舞台にしているわけではないし、逆にパリを舞台にした叙情的なオペラ「ボエーム」も「椿姫」も、イタリア人の作品である。作曲家の活躍した場所と作品の舞台が一致する作品は、意外にも少ないことに気付く(プッチーニの「トスカ」、ヴェルディの「リゴレット」、あるいはワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などが思い浮かぶ)。
だからフランスでしばしば上演され、その音楽も極めてフランス的。オペラ・コミックとしての性格も兼ね備えて時折セリフが語られるかと思えば、全5幕の中盤でバレエも登場する。けれども私にとっての「マノン」初体験は、それまでに見た「タイース」や「ウェルテル」の感銘を上回る程ではなかった、というのが正直な感想である。たとえマノン(ソプラノ)に絶頂のアンナ・ネトレプコ、その相手である騎士デ・グリュー(テノール)にピョートル・ベチャワという当たり役を配した、おそらくは極めつけの舞台であっても、である。それはやはり、音楽に原因があるのではないか、というのが偽らざる心境である。指揮はファビオ・ルイージ、演出はロラン・ペリーで、時代設定を少しかえているとはいえ、ほぼオーソドックスな演出。
それでも見せ場はあった。特に印象的だったのは第3幕後半の教会内部のシーンである。マノンに一目惚れして駆け落ちまでした青年デ・グリューは、同棲生活の途中に横槍が入り、マノンもお金に目が眩んでデ・グリューを裏切る。デ・グリューは教会に入る決心をして修道士として祈りを捧げる毎日である。そこへマノンが登場し復縁を迫る。忘れようとしていた元恋人を思い出し、その感情に抗しきれない二人は、教会の中で二重唱を歌い、最後には熱い抱擁を交わすのだ。ストーリーはこのあたりから急速に下降していく。つまりこれは墜落の物語、というわけである。
けれども第4幕になって賭博のシーンになると、私は「椿姫」の第2幕後半を思い出さずにはいられないかった。マノンにそそのかされ、半ば自暴自棄になったデ・グリューは、金持ちのギヨー(テノールのクリストフ・モルターニュ)に賭けを挑む。そこに現れるのは一度勘当した息子を訪ねてくる父、デ・グリュー伯爵(バス・バリトンのデイヴィッド・ピッツィンガー)である。その登場の仕方など、あの社交界に復帰して伯爵に賭けを挑み、借金を返済するという自暴自棄なアルフレードそっくりなのである。けれども音楽は・・・あえて素人根性をむき出しにして言うと・・・遠くヴェルディには及ばない。「椿姫」の作曲は1853年で「マノン」よりも30年程前である。
いずれも原作があるのだから、これは流行りのストーリーだったのかも知れないが、マスネは明らかに「椿姫」を意識して作曲したのではないだろうか。だが「椿姫」を越えることはなかった。それどころかこのオペラには、ほかに印象的なアリアや合唱があるわけではなく、重唱も少ない。全体に散漫でさえある。最終幕でアメリカへ売られていこうとするマノンを、従兄弟のレスコー(バリトンのパウロ・ジョット)の協力で助けだしたデ・グリューではあったが、とうとう力尽きて彼の手の中で死んでいく。「これがマノン・レスコーの物語」とモノローグ風に語るマノンのセリフには、あのヴィオレッタの「パリを離れて」を思い出させるのだが・・・。
プッチーニもオペラ化した「マノン・レスコー」とは少し結末が異なっているが、これはこれで十分にドラマチックな物語である。だがそれにしては物語のメリハリに欠け、感動に乏しいと感じた。もっと違った演出で見ていたら、また違った印象だったかも知れない。あるいはもしかしたら、台本が良くなかったか。マスネの他の作品の完成度を思うと、そういう気もしないではない。
実にマノンは若干まだ十代の少女である。大変な美女であるとはいえ、世間知らずでもあるだろう。ネトレプコはそのような美しく、そして最終的には憎めない女性としてマノンを演じた。6回も衣装を変えての演技は素晴らしかった。だが、妖艶にして魔性を感じさせるような(ある人に言わせると、カルメンも遠く及ばないそうだ)女性の姿ではなかった。もしかしたらその「毒性」の少なさが私を白けさせたのかも知れない。全体に中途半端な印象を消し去ることはできなかった。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)
ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...
-
現時点で所有する機器をまとめて書いておく。これは自分のメモである。私のオーディオ機器は、こんなところで書くほど大したことはない。出来る限り投資を抑えてきたことと、それに何より引っ越しを繰り返したので、環境に合った機器を設置することがなかなかできなかったためである。実際、収入を得て...
-
当時の北海道の鉄道路線図を見ると、今では廃止された路線が数多く走っていることがわかる。その多くが道東・道北地域で、時刻表を見ると一日に数往復といった「超」ローカル線も多い。とりわけ有名だったのは、2往復しかない名寄本線の湧別と中湧別の区間と、豪雪地帯で知られる深名線である。愛国や...
-
1994年の最初の曲「カルーセル行進曲」を聞くと、強弱のはっきりしたムーティや、陽気で楽しいメータとはまた異なる、精緻でバランス感覚に優れた音作りというのが存在するのだということがわかる。職人的な指揮は、各楽器の混じり合った微妙な色合い、テンポの微妙あ揺れを際立たせる。こうして、...
0 件のコメント:
コメントを投稿