2016年9月6日火曜日

マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調(ダニエレ・ガッティ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

私は長年、マーラーの交響曲第5番が苦手であった。もっとも頻繁に演奏され人気も高い曲、と言われているだけに、どうしてこの曲が好きになれないのか自分も不思議だった。演奏会で聞いたときも、それは変わらなかった。この曲はズビン・メータの指揮するイスラエル・フィル、あるいはダニエル・ハーディングの指揮する新日本交響楽団などで聞いたことがある。

録音ではどうか。カラヤン、バルビローリ、ショルティ。DVDでバーンスタイン。でもどこか入り込めない。唯一あの映画で有名になった第4楽章「アダジエット」だけは、まるでそこだけ時間が止まったような、とても不思議な瞬間が来る。でもこの曲はこの部分が有名であることだけが恐ろしいほど突出していて、それ以外の部分となると、初めて聞いた時などは結構やかましい曲だな、などと思ったものだ。

それもそうである。この第5交響曲はマーラーの後年の作品群、すなわち第6番「悲劇的」、第7番「夜の歌」などと並ぶ作品への入り口なのだ。「巨人」や「復活」のような親しみやすさがないのは、もうマーラーの作品が年代とともに変容していくからである。ではその変容、あるいは深化とはどのようなものか?

これを語るのは多分に音楽的知識を有し、世紀末に象徴されるドイツの近現代史に通じている必要がある。マーラーの伝記のいくつかを読み込むことはもちろん、その妻となるアルマの伝記、そして女性の自由化の社会史にも詳しくなければならない。残念ながら私はそのすべてにおいて素人だから、このような作品を楽しむのは非常に骨の折れる作業である。もしかしたらマーラーの後半の交響曲は理解できないかも知れない。でもそれが真実なら、この曲がこんなに人気がある理由が説明できない。もしかしたら一発で感動できる演奏に出会うことはできないだろうか。

こういうとき、とにかくいろいろな演奏を聞いて自分にフィットする演奏を探し求めるしかない。そういうわけで、私はさらにハイティンク、シノーポリなどの演奏を聞けるものから聞いて行った。そうしてある日、私の感覚にフィットした演奏が出現したのだ!比較的最近の演奏、ダニエレ・ガッティによる演奏であった。

ダニエレ・ガッティといえば今を時めく指揮者のひとりだが、METライヴの上演で「パルジファル」を見るまでは知らなかった。この「パルジファル」は暗譜によって指揮され、その見事さは比類ないものとして語られているし、私も(まあ映像で見る場合、どうしても演出の素晴らしさに見とれたところもあるし、歌手の出来・不出来というのもあるから、純粋に指揮者だけを評価するのは難しいのだが)その安定的で聞きどころを押さえた指揮にとても心を打たれたのは確かである。

ガッティは今年(2016年)からコンセルトヘボウ管弦楽団の主席指揮者となるようだが、この演奏はロイヤル・フィルのシェフ時代の1996年頃で36歳の時の演奏というから、私と同年代の指揮者ということになる。

まず冒頭のトランペットがとても印象的である。ベートーヴェンの第5交響曲を意識したであろうこのパッセージを、ガッティはわずかな休止を入れながら進む。このことだけで、何かいつもと違う演奏に感じられる。そしてそう感じるのは表層的な仕掛けによるだけではないように思う。例えば第2楽章や第3楽章の後半の、凄まじいまでのエネルギーを放出しながらも、音楽の形式を壊すことのない演奏。白熱したライヴのような演奏だが、スタイリッシュで遅く十分な時間を取って進むところもある。緩急をつけながらも自然でこなれた感じ。こういう演奏がなかなかなかったのだ。もしかしたら、ただこれまで出会わなかっただけかも知れないが。

マーラーの第5交響曲は、ベートーヴェンの第5交響曲がそうであったように、苦悩から喜びへの進化をモチーフとしているように思える。だがベートーヴェンのように単純なものではなく、マーラーのそれはより複雑であり、聞く人にとってはちょっと不愉快なくらいに大袈裟であるばかりか、時に冷笑的でさえある。皮肉に込められたパロディーは、第7交響曲に至るまでの、もっともマーラーっぽい部分であろう。好きな人にはたまらないのかも知れないが、マーラーの嫌いな人にとってはとてつもなく苦痛である。この嬰ハ短調交響曲は、その中ではむしろまだましである。何せもっとも短い(70分)のだから!

第1楽章は葬送行進曲。冒頭のフォルティッシモにマーラーの音楽が始まる感激が沸くが長くは続かない。つまりとてつもなく、暗い。

第2楽章「嵐のように荒々しく動きをもって。最大の激烈さを持って」。激情的で切羽詰まった曲である。弛緩した古い演奏よりも、引き締まった現代風の演奏がいい。もちろんそれは技術的な進歩に負うところが大きい。一時静かになって音楽が終わってしまったのか、と思うところもあるが、再びより強烈に悲壮な音楽となる。

第3楽章スケルツォ。三拍子のリズムでホッとする。室内楽的な落ち着きが聞くものを少し和ませはするが、かといって安定しているわけではない。この20分近くにも及ぶスケルツォが私は好きだ。とても長いが、どういうわけか飽きない。それどころか変化に富んで楽しいと思う。もっとも第1楽章から聞いてゆくと、いつまでも終わらないので、演奏によっては退屈であろう。

第4楽章は有名なアダジエット。カラヤンの死後にベストセラーとなったコンピレーションCD「アダージョ・カラヤン」はこの曲から始まる。だがこの曲は「アダージョ」ではない。それよりも少し速いということだ。この速さというのが、この曲の核心を現している。つまりどこか性急な感情が一時的には落ち着いているという要素があって、冷静に自分を見つめている。私は冬の日本海を列車に乗って通り過ぎるシーンを何故か思い浮かべる。そして車窓には自分の顔が映っている。

第5楽章は快活なフィナーレ。でも快活どころか狂気じみている。オーケストラの機能美が発揮される。いい演奏で聞くと次第に高潮してゆき、最後は一気に終わる。マーラーの交響曲はいつもその傾向があるが、この第5番では若々しいエネルギーを感じる。ガッティの演奏はまた唖然とするような上手い。

マーラーがウィーン・フィルの音楽監督を辞し、作曲に専念し始めるのはこの頃である。アルマとの結婚も彼に精神的な糧を与えたであろう。これは遅咲きのマーラーの、最後の十年間の最初を飾る、絶頂期の曲と言えるかも知れない。だがこの暗さ、そしてハチャメチャなまでの不安定さといったらない。時代背景、ユダヤ人としての生い立ちなど、その理由をいくつも求めることはできる。特にこの第5番は幾分散漫な印象を与えるため、なかなか馴染めなかった。今でも、何か集中力が続かない。でもそのような時に印象的な部分が突如として現れると、その瞬間からは少し引き込まれる。ガッティの演奏はそういった工夫がところどころに見られる演奏である。録音も広がりがあって良いし、オーケストラも上手い。

そういえば若い指揮者の一気果敢なマーラーと言えば、70年代のレヴァインである。私も持っていたはずだ。もう一度聞いてみよう。もしかしたらガッティの演奏に通じるものがあるかも知れない。そう思ったらやはりそうだった。いやこのレヴァインの演奏は、録音の古さをさておいてもトップクラスの演奏ではなかったか!だがレヴァインは第6番で取り上げることにしようと思う。第6番はレヴァインで実演を聞いているのだから。

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