2016年9月25日日曜日

ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」(2016年9月24日、サントリーホール)

久しぶりにサントリーホールへ出かけた。このホールは私が大阪で学生だった頃(1986年)にオープンした。まだ東京にクラシック音楽専用のホールがなかった頃だが、どうして大阪の会社が東京にホールを作るのかと思った。その頃大阪には、すでにザ・シンフォニーホールがあったから、東京にも必要だと考えたのだろう、などと思った。

1992年に上京して社会人となり、さっそくNHK交響楽団の定期会員になったが、N響は当時NHKホールでしか定期公演を行っておらず、私が初めてサントリーホールに行ったのは、確かその年の秋の日フィル定期だったかと思う。コダーイの合唱曲とドヴォルザークのチェロ協奏曲がその日のプログラムで、私はそのコンサートに大阪から来ていた母を招待した。

それ以降私は数々のコンサートでサントリーホールに出かけ、読売日本交響楽団の定期会員にもなって毎月武蔵野から足を運んだし、結婚してからは夫婦でラトルの第九も聞いた。病気で倒れた後も何年かぶりに聞いたブルックナーは忘れることが出来ず、ベルリン・フィルの圧倒的なブラームスに度肝を抜いたこともあった。そしてそのサントリーホールのある港区に引っ越したのが10年前のことである。何と今では息子が小学校の音楽鑑賞会でドビュッシーを聞き、ホール前の広場では相撲大会に出場したりしている。

思えば長いつきあいのこのホールは、今でも大変新しくきれいである。今日のコンサート、東京交響楽団の創立70周年記念となる第644回定期演奏会に向かいながら、それまでのこのホールに足を運ぶ日々を回想していた。

ユベール・スダーンというオランダ生まれの指揮者を一度は聞いてみたいとずっと思っていた。10年以上もこのオーケストラを率いてきた指揮者だったが、私はいつもスケジュールが合わず、チケットを買って待ち望んでいたコンサートは、緊急の入院で行けなかったりした。そして今回ついにベルリオーズの大作「ファウストの劫罰」を聞くことができたのである。その印象をここに書いておきたい。

読売新聞の記事にスダーン氏は「美しい映画を見ているかのような作品」であり「耳に美があふれる作品」と紹介している。そして今回の演奏はまさにその通りであり、私はこれ以上美しい音楽の連続する時間を過ごした経験はないのでは、と思うほどに感動した2時間半であった。

それは第1部の冒頭でハンガリーの田園風景を表現するオーケストラの音色から始まった。まさに耳が洗われるような感じであった。有名な「ハンガリー行進曲」も程よく抑制が効いていながら、音のパノラマを楽しんだ。このオーケストラは上手いと思う。特にオーボエのソロなどが中音域主体の弦楽器に溶け合うところなど、至福の瞬間である。

ファウスト役を歌うアメリカ人テノールのマイケル・スパイアーズは、まさにこの役のためにいるかのような美しい声の持ち主で、2階席後方で聞いていても透き通るような声が会場にこだまする。それに加えてバス(といってもバリトンのように聞こえる)のミハイル・ペトレンコは、時に大きな身振りをみせつつこの悪役を歌いつくす。初めてこの役を歌うとインタビューで答えているが、そんな感じが全くしない、板についた歌いっぷりである。この二人の歌手に、スダーンの魔法のような音楽が乗っていく。合唱団は後方P席にずらりと陣取った東響コーラスで、これがフランス語の難しいと思われる歌詞もものともしない見事さ!私は合唱の美しい曲にハマっているが、この作品こそ、まさしく合唱がつまらなければ聞くことのできない作品である。

合唱のついでに、最後のマルグリートが天に召されて登ってゆく部分で天使を歌うのが、東京少年少女合唱隊である。彼らは後半の冒頭から登場し舞台右側後方に座っていたが、まだ小学生であろうこのメンバーたちは、体を微動だにせず行儀がいい。そしてついにそのコーラスが始まると、どこが少年合唱でどこが大人の合唱か、はたまたオーケストラはどの楽器が鳴っているのかの区別がつかないほどに合わさっている。あまりに美しい音楽に会場が陶酔したのは当然のことである。私は目を閉じていたからわからないが、指揮棒が振り下ろされ音楽が消えても、しばらくは誰一人拍手も物音も立てない静寂が続いた。待ち切れず一人がブラボーと叫び、そして割れんばかりの拍手が始まった。2階席全体がこれほどにまでブラボーを叫んだ日本人のコンサートを私は知らない。

何とも言えない、いいコンサートだった。音楽は、いつもCDなどで聞くのとは違い、すべての細部にまで集中力が絶えないからだろう、この曲はこんなにも美しかったのかと改めて思った。何度か電車に揺られながら聞いてもみたが、途中で眠ってしまうこともしばしばだったし、DVDやTVで放映された映像を、長い時間見続けることは結構大変だった。だから生のコンサートはいいな、と今回も思った。音が生き生きと響く上に、残らないその瞬間瞬間を何千人もで共有しているというその事実が奇蹟だと思うのだ。

「ファウストの劫罰」の音楽はそれぞれがみな素晴らしいが、かといって口ずさむような覚えやすいメロディーが頭に残るわけでもない。ベルリオーズはいつも不思議な音楽だが、この作曲家がフランス音楽に与えた、いやヨーロッパ音楽全体に与えた影響は計り知れない、とスダーン氏は書いている。

すでに名声を確立したベルリオーズが、文豪ゲーテの作品を音楽化したという野心作にして自信作であったにも関わらず、パリの聴衆はこの作品に冷たかったようだ。思えば現代のように、音楽が収録されることなどあり得なかった時代、消えてしまう音楽は印象が残らなければ、誰も思い出すことなどできなかっただろう。ハンガリーに舞台を移し、断片的な音楽を組み合わせたこの作品は、オペラとして上演されることもあるが、その舞台は物語を進行するというよりは抽象的であることが多く、ファンタジックである。

この作品は、後年に大きな影響を及ぼす斬新的な要素を持っているとはいえ、まだロマン派前期の作風でもある。よって音楽が親しみやすくないわけがなく、多彩な楽器や奏法(バンダも使われる)と美しい合唱も入って、まさに絵画のような作品である。一人ずつ舞台に登場した拍手の中で、マルグリートを歌ったソプラノのソフィー・コッシュやブランデルを歌った北川辰彦にも大きな拍手が送られたが、私はコッシュの歌声が、やや精彩を欠いていたように思える。

家路につきながら、最近身の回りに生じたいろいろなことを考えた。今日のコンサートの聴衆は、ワーグナーのオペラを見に来る団塊世代の風変わりな客層と違って、随分身なりがいいように思えた。20代の聴衆は、私が初めてこのコンサートホールに来た四半世紀前にはまだ生まれていなかったであろう。そう思うと、いつも変わらない表情のサントリーホール及びその界隈も、実はそこを行き交う人と同様、年輪を重ねている。私はもう、この曲をこれほどの完成度と感銘を持って聞くことは一生ないだろうと思った。だから、機会があればもう一度聞きたいとは思うが、どうしても今日のコンサートを比べてしまうだろうと思うと躊躇するかも知れない。やはり、音楽は一期一会の瞬間を生で楽しむに限る、と思う。


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