2016年9月8日木曜日

ドニゼッティ:歌劇「連隊の娘」(The MET Live in HD 2007-2008)

ペルー生まれのテノール歌手、ファン・ディエゴ・フローレスは、かつてパヴァロッティがそうであったように、ドニゼッティの歌劇「連隊の娘」のトニオ役で輝かしいハイCを轟かせ、一躍脚光を浴びた。各地のオペラ・ハウスから声がかかり、デッカから遂にDVDが発売された。2005年、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場での収録である。私もどういうわけか、他にドニゼッティなどほとんど聞いてこなかったにも関わらずこのビデオを購入し、得体も知れぬオペラを見た。

ドニゼッティと言えば「ランメルモールのルチア」や「愛の妙薬」 などでよく知られているイタリアの作曲家だが、この「連隊の娘」は"La fille du regiment"すなわちフランス語のオペラである。ドニゼッティはイタリアで名声を博した後フランスに移住した。「連隊の娘」はフランスに対しての風刺をきかせながらも、オペラ・コミークとしての形式、すなわち台詞入りで書かれている。

初めてビデオを見て思ったことは、ベルカント時代の作品にありがちな実に荒唐無稽なストーリーだということである。孤児としてフランスの軍隊で育てられたマリーに対し恋心を抱くスイスの若者トニオ。彼はマリーと結婚するために、敵であるフランス軍の兵士となる決意をする。だが間もなくマリーを身内の子だと言うベルケンフィールド公爵夫人が現れ、マリーは貴族のお城へ、トニオは兵士として赴く羽目となる。

今回METライヴのアンコール上演で2008年の公演のリバイバル上映が行われた。私は十年も続くこの企画の作品を70タイトルも見てきたが、この「連隊の娘」は見逃しており、今回初めて見ることになった。しかもそれまでに見た経験では、上述のビデオだけだから、ほとんど初めてのようなものである。ベルカント時代のブッファとなれば楽しくないはずがなく、まさに捧腹絶倒のオペラであったが、ここでトニオを歌ったのは、やはりフローレスだった。

だが私が見た印象ではビデオに比べ随分落ち着いてこなれており、そして歌が実にしっかりと身についているということだ。何か所もの難所、すなわち超高音連発のオペラを、軽々と歌っているように見えるのだ。加えて相手役で標題役のナタリー・デセイの見事な役者ぶりが、それに輪をかけて素晴らしい。いや私はアップの画面で見る彼女の演技にこそ、見とれてしまったほどだ。ヘンデルのクレオパトラ(「ジュリオ・チェーザレ」)でも明らかなように、彼女の多様な動きを加えた演技力はちょっとしたミュージカルの役者レベルである。しかもその彼女が踊りに合わせて声を発すると、その声は見事なまでに大ホールにこだまする。高い音も難なく歌ってしまう。

つまりフローレスのトニオとデセイのマリーは、歌唱力の点でもかつてのパヴァロッティ、サザランド級、すなわち世界最高峰であることに加えて、ヴィジュアルな点でも現代屈指のカップルということになる。そして驚くべきことに、そのストーリーが無理なく進み、しかも少しの皮肉やユーモアを存分に味わわせるレベルの演出(ローレン・ペリー)、特に今回新たに書き改められた台詞が実に素晴らしいと思えた。

歌、演技、そして演出の3拍子がそろった屈指の「連隊の娘」は、マルコ・アルミリアートの引き締まった指揮も手伝って、歴史的な成功だったのではないか。だから10年近くも経つというのにリバイバル上映が行われ、しかもそこそこの入りである。私は台風が近づく鬱陶しい東京の昼下がりに、久しぶりにオペラの楽しさを味わった。

ベルゲンフィールド公爵夫人(フェリシティ・パルマー、彼女はまたなかなか味わいのある演技で観客を魅了した)の居間では、今日も退屈な貴族の生活が営まれている。マリーはそのような生活に嫌気がさし、軍曹のシェルピス(バスのアレッサンドロ・コルベリ)が訪ねてくると、軍隊生活が思い出されて仕方がない(ラタプランの歌)。そこに大尉となったトニオが現れ再び結婚を誓うのだが、公爵夫人はそれを許さない。ところがマリーは実は公爵夫人の子だった!最後には結婚を認めて幸福のうちに幕となる。

総合的な完成度において最高ランクの本公演は、セリフの面白さ(それはまるで松竹新喜劇のようだ)も手伝って客席を笑いの渦に巻き込む。そうでないときにはデセイが動きのある演技(アイロンをたたみながら歌う冒頭から、第2幕の歌のレッスンシーンなどそれは全開状態)、そしてハイCが連続するアリア(第1幕の「友よ今日は楽しい日」)と見どころが尽きない。

この公演の面白さのひとつは、それぞれの歌手が話す会話(フランス語)だと思う。デセイは母国語なので流暢であることを利用して、表現力に幅を加える。一方ベルゲンフィールド公爵夫人役のパルマーはイギリス人で、彼女はそのことを逆手にとって、むしろたどたどしく話すことで貴族の身分におかしみを加えることに成功している。時に発せられる決め台詞が英語だったりするあたりは、アメリカの聴衆を意識したサービスでもある。

METライブの71公演目を見終わって、ドニゼッティに関する限り、主要作品を一度はすべて見たことになった。チューダー朝三部作(「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」「ロベルト・デヴェリュー」)、それに喜劇の3作品(「愛の妙薬」「ドン・パスクアーレ」「連隊の娘」)、さらに「ランメルモールのルチア」である。そのどれもが圧巻の素晴らしさだった。私のMETライブとの出会いは、ドニゼッティとの出会いでもあった。

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