旅行が趣味の私にとって、台湾はどういうわけか長い間、無縁であり続けた。別に避けてきたわけではない。むしろ台湾に友人もいたし、初めて一緒にヨーロッパを旅行した友人のS君も、大学生の頃いち早く台北へ出かけ、私に手紙を書いている。「こんな素敵な場所はない。君も早く来たまえ」と。
台湾という土地に初めて「降り立った」のは、この最初のヨーロッパ行きの途上であった。私とS君は大阪から大韓航空に乗り、ソウルで乗り換えた香港行きの飛行機が台北を経由したのだ。当時韓国と中華人民共和国との間に国交はなく、台湾が「唯一の中国」だったのである。「蒋介石国際空港」と機内のアナウンスにはあった。現在の桃園国際空港のことである。当時国民党による一党独裁政治が続いていた台湾は、まだ「自由な」国ではなかった。
20年以上に及ぶ世界一長い戒厳令は、おそらくまだ続いていたかと思う。「自由中国」は名ばかりであった。とはいえ、1980年代の冷戦時代、そこには大陸の中国とは違う空気があっただろうとは思う。中華人民共和国はまだ人民服を着た青年が人民公社で働く国だった。台湾の入国記録があると中華人民共和国のビザは取得できないと言われていた。今となっては信じられないことだ。私たちは、その空港の薄暗く静かなトランジットルームで小一時間を過ごしただけで、再び機上の人となった。私は台湾へ入国していない。
その後沖縄の先島諸島を旅行し、台湾の目と鼻の先にある与那国島の西の端で、東シナ海に沈む夕陽を見たことがあるが、その時も台湾を見ることはできなかった。「自由中国の声」という台湾の国際放送(当時)は、私をして台湾を身近な国にした。「玉山」という富士山より高い山があることも知った。台湾東部の断崖絶壁を非り開いた鉄道が、世界でも有数の難工事であったこと、数多くの少数民族が暮らす台湾では、かれらの独特の文化が存在すること(ただしそれは差別と偏見の歴史でもある)、国民党の独裁政治が李登輝総統を最後に終わり、中国史上初の民主的な選挙を経て民進党による政治が始まったこと、そして奇跡の経済発展へとアクセルを踏み続ける台湾には、我が国の技術で作られた新幹線(高鉄、すなわちHSR)が開通したこと、そういった数々のニュースや知識は断片的であり、友人や知人が土産に持ち帰るお茶やパイナップルケーキ、それに台北101という世界有数の高層ビルなどの話を聞く程度であった。
最近の台湾ブームは、小龍包をはじめとする料理とマッサージ、ナイト・マーケットなどで目にするかわいらしいアクセサリーや雑貨類などが若い女性の心を捉え、大変な活況を呈している。数多くのLCCが今や日本各地に就航し、それらは日本を訪れる台湾人と台湾を訪れる日本人を連日大量に輸送している。近くて遠い国が、まさに近くて近い国になることはとても素晴らしいことだと思う。私もそういうわけで、とうとう台北の地を旅行する時が来た。思い立って年末年始のチケットを押さえ、ホテルを予約したのは11月になってからだった。台北への旅行計画は、このように突如始まった。
「麗しの国(フォルモサ)」と台湾を「発見」したポルトガル人はそう名付けた。我が国に鉄砲やキリスト教が伝来した頃に、台湾は世界史に登場する。だがその後の台湾は、欧米列強(オランダ)や清による支配を経て日本の統治下に入る。台湾を占領した日本は、その後半世紀にわたって台湾を支配し続け、帝国主義下での近代化を推し進めた。台北に鉄道を敷き、帝国大学を作ったのも日本である。植民地時代の「遺産」は、戦後の台湾の歴史にも大きな影響を与えたに違いない。だが、そのようなことを含め、正確に台湾の歴史を知ることは長年困難であった。
第2次世界大戦後に日本が手放した台湾を徹底的に弾圧したのは蒋介石率いる国民党で、そのことは2.28事件に象徴されている。けれどもこの事件が明るみになるのは1990年代になってからだ。台湾の歴史を台湾自らが直視してこなかったことが、私を長年この国から遠ざけてきた原因ではないかと思うに至ったのは、「台湾」(伊藤清、中公新書)を読んでからだ。台湾のわかりにくさは、この国の政治状況が目まぐるしく変化し、中華人民共和国との関係改善、諸外国(とりわけ米国と日本)との矛盾した外交関係、外省人と内省人との対立、そして小数民族の問題など、あまりにタブー視されてきたものが多く、複雑だからだろうと思う。
それらから目をそらせ、曇らせてしまうほどに21世紀に入ってからの台湾の経済的発展は著しい。だからこそ、現在の台湾ブームがあるように思う。台湾の頼もしくて美しい側面だけを見ようとすれば、それが可能となったのだ。丁度ヨーロッパ人が何世紀も前にこの島を「麗しの国」と呼んだように。
2017年2月3日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)
ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...
-
現時点で所有する機器をまとめて書いておく。これは自分のメモである。私のオーディオ機器は、こんなところで書くほど大したことはない。出来る限り投資を抑えてきたことと、それに何より引っ越しを繰り返したので、環境に合った機器を設置することがなかなかできなかったためである。実際、収入を得て...
-
当時の北海道の鉄道路線図を見ると、今では廃止された路線が数多く走っていることがわかる。その多くが道東・道北地域で、時刻表を見ると一日に数往復といった「超」ローカル線も多い。とりわけ有名だったのは、2往復しかない名寄本線の湧別と中湧別の区間と、豪雪地帯で知られる深名線である。愛国や...
-
1994年の最初の曲「カルーセル行進曲」を聞くと、強弱のはっきりしたムーティや、陽気で楽しいメータとはまた異なる、精緻でバランス感覚に優れた音作りというのが存在するのだということがわかる。職人的な指揮は、各楽器の混じり合った微妙な色合い、テンポの微妙あ揺れを際立たせる。こうして、...
0 件のコメント:
コメントを投稿