今や台北には中国本土からの観光客も多く、すべての人々がスマートフォンを片手に長さ十数センチほどの白菜を見にやって来る。この白菜は「翠玉白菜」と言い、ヒスイでできた彫刻だが、作者や原産地は不明でわからないことも多い。自然の色を生かした彫刻は、まるで本物の白菜のように精緻で芸術的な美しさを醸し出しているが、これだけが突出して有名で行列は絶えることがない、というのも不思議ではある。ほぼすべての観光客がカメラに収めていくが、その写真を各自どう整理するのかよくわからない。建物は3階建てだが、左右に分かれた展示室は広大で、すべてを一日で見て回ることはできない。いや通るだけならそれも可能だが、それでは意味がない、ということのようである。実は私は博物館というのがどうも苦手で、これまで世界各地の博物館へは出かけたが、あのパリでルーブルには行っていないし、バチカン美術館もプラド美術館も、到着した際には展示物を見る元気もなく歩き疲れ、とてもベストなコンディションで見たとは言い難い。他の人の意見はよくわからないのだが、私は博物館に行く理由をこう考えている。それは対象となる物事への関心の契機であると考えることである。
このような展示が可能となったのは、これもまた台湾の民主化の産物と考えられるが、そういったことに気付くのもこの地を訪れたことがきっかけだろうし、それにそこに展示されていた首狩り族の展示などは、「やはりそうだったのか」と、かつて大阪の民俗学博物館で見た南米アマゾンの人間の首の展示を思い出した。ちなみに首狩りは、敵に勝った際にその酋長を打ち首にして骸骨を取り除き、戦利品として晒すというもののようだが、これを英語でヘッド・ハンティングという。ヘッド・ハンティングと言えば現代では、抜擢された名誉ある転職を意味するようだが、その実は曝し首である。
兎に角、博物館について、浅薄な私はそれでいいのではないかと開き直っている。そしてこのような経験は、その後の対象について語るときの、重要なテーマと成り得る。あるいはまたちょっと本を読んでみようか、などとなる可能性もあるのである。実際、時間が限られる中で、すべてを見ようとすることに無理があり、私はいつもこれはきっかけ作りだと割り切って、博物館を速足で通り過ぎる。もちろんギフトショップへも立ち寄り、気に入ったものを買ったりもする(今回故宮博物院の地下にある郵便局で、私はこの白菜の記念切手と、元旦の消印を押したフィラテリスト向け記念品を発見し、嬉しい思いで買い求めた)。
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