2017年2月7日火曜日

台湾への旅(2016)ー中華民国

台湾という地域を一言でいえば、所属のはっきりしない地域ということになる。それは歴史に登場してからずっとそうで、そしていまなお、そうなのだ。

中華民国を建国した国民党は、敗戦によって領土を手放した日本に代わって、今度は「戦勝国」として台湾を「開放」し、中国の一部として統治し始める。本土では毛沢東の率いる共産党の勢いが優勢で、国民党はそのまま台湾へ逃れ、台湾に「一つの中国」としての中華民国を建国する。ここで台湾はあくまでその中の一つの省にすぎない。台湾にもともと住んでいた福建省を中心とする中国人、すなわち明や清の時代にやってきた「内省人」との深い軋轢を生むのはこの時で、国民党の支配は日本統治時代以上に過酷な生活を台湾の人々に強いることとなった。「犬が去って豚が来た」とはこの時のことを表現している。

おそらく最も悲劇だったのは、国民党政権が民主的ではなく、かつ近代的でもなかったことだ。曲がりなりにも日本統治時代には、教育や農業を始めとして台湾の近代化が進められ、台湾の自治にむけた民主化の萌芽も芽生えつつあった、と私が読んだ本には書いてある。台湾の日本統治からの解放は、屈辱的な植民地支配の終焉をもたらしたが、それは同時に、近代化の停滞、そして民主主義の弾圧を生む結果となった。

もっとも台湾にはもともと住んでいた先住民族もいて、日本人、中国人、少数民族の三層構造の支配関係にあった。そしてその歴史は長らく語られることはなく、戦後はむしろ長い歴史を誇る中国の先頭を行く国家として、中国を代表するという、欺瞞と違和感が先行する政治状況であったと言わねばならない。蒋介石、その息子である蒋経国による圧政は、事実数多くの悲劇を生み、長らくそれが顧みられることはなかった。だが李登輝が国民党から総統に登りつめたころから台湾の民主化がゆっくりと進む。李登輝という人は京都帝国大学に学び、米国で農学博士号をとった台湾人だが、初めて台湾人出身の総統が誕生したのである。

その後、民主的な選挙を経て総統に再選された李登輝は、さらに民主化を進め、経済発展も手伝って世界でも有数のGDPを誇る国になった。ほとんどの国の政府は台湾を国だと認めていないが、今や台湾がなくなれば世界中のスマートフォンがつくられなくなるのではないか。それほど重要な地位に登りつめたのも、大きく端折って言えば、植民地時代の近代化がその主因のひとつであろう。

台湾人の中国本土とは違うという意識は、台北市内の随所に感じることが出来る。その一つが公衆トイレである。おおよそ台北ほどトイレの綺麗な街はない。地下鉄の駅であっても改札の内外に大きなトイレが設置され、常に掃除されている。個室はどこが使用中が電光掲示され、トイレの優劣を示す証明書まで掲示されているのだ。一部のトイレでは手拭き用の紙が自動的に出てくる。何でも自動化してしまう日本でも、これだけは見たことがない。

もう一つの台湾の素晴らしい点は、タクシーである。タクシーの水準がこれほど高いところを知らない。彼らは道を良く知っており、しかも客がタクシーを利用する理由を心得ている。すなわち速いのだ。だからと言って法外な料金を請求することはなく、小銭に至るまでお釣りを返してくれる。

最終日。私は夕方に中正記念堂を訪ね、その自由広場と名づけられた正門から蒋介石の銅像が設置されている建物に向かって歩こうとした。あちらこちらに中華民国の国旗がはためき、それは快晴の空にひときわ鮮やかに映えていた。だが私を驚かせたのはその広場の中心で、人気歌手のコンサートが繰り広げられていたことだ。若い男性の歌手だったと思う。彼は歌い、そして詰めかけた何千人もの若者がこれに聞き入っていた。平和な新年の夕暮れは、自由広場のロックコンサートで幕を閉じた。

群衆が地下鉄駅に群がるのを避け、台北駅方面に歩き出した私は、その向こうに総統府を発見し、そしてその前に今では博物館となった2.28事件の記念館の前を通った。多くのカップルが同じように歩き、空が夕焼けに染まる頃、台北駅に到着した。そこはまるで新宿駅のように混雑しており、2階にあるレストラン街はどの店にも行列ができていた。この光景は東京で見る週末の光景と何ら変わらないものだった。その店の名前、すなわちわが国でも有名な飲食店の数々を含めて。

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