この作品を私は当初、長ったらしくて辛気臭く、とても聞くに耐えない曲だと考えていた。ところがムーティの演奏を聞き続けているうちに、この曲の深い味わいに浸ることになっていった。もう何回も聞いている。通常私はこのブログを書き終えると、しばらくそこで取り上げた曲からは遠ざかることにしている。他に書きたい曲が、まだ山のようにあるからだ。だがこの曲だけは違っていた。悲しみに打ちひしがれたような曲が、延々と1時間も続くと言うのに。
そして、とうとう弦楽四重奏版を聞いてみたいと思った。私はあまり室内楽を聞かないが、この曲がどういう風に編曲されているぼか、ハイドン好きとしては聞いてみたくなったのである。が、アマゾンで検索しても、あまり録音は多くないようだった。有名なカルテットでもこの曲を録音しているのはほとんどない。あるいはすでに廃盤となっているか。仕方がないので中古屋をあたると、そこに何とクレーメルがヴァイオリンを弾き、他に3人のソリストを加えた四重奏団による録音に出会った。フィリップスから発売されているので、列記としたメジャー録音である。もう一人のヴァイオリンは、カトリン・ラブス、ヴィオラにジェラール・コセ、チェロは岩崎洸。日本語のライナー・ノーツには「クレーメル四重奏団」と書かれているが、当時まだクレーメルはソビエトの演奏家で、出身もバラバラなこの4人は時折集まって演奏をしていたようだ。
弦楽四重奏曲は、二人の弦楽器だけで演奏される。これはオーケストラからすべての管楽器、打楽器、それにコントラバスを除き、しかも各パート一人による編成となる。すべての管弦楽曲は、あらゆる贅肉をそぎ落とし、いわば骨と皮だけの、まるでウィスキーの原液を飲むようなエッセンスのみの音楽である。弦楽四重奏曲が大規模な曲に編曲されることも多いし、逆に、管弦楽曲を弦楽四重奏曲に編曲されることも多いが、「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」は後者である。
弦楽四重奏曲となることでフルートやホルンのパートはなくなり、地味で退屈な旋律を延々と聞くことになるのだろうか、という事前の予想を裏切って、ここでもまたハイドンの、シンプルだが深い印象を残す旋律に引き込まれていった。正直な感想としては、音楽は意外に軽やかである。編成が最小限であることにより、音楽の持つ本来の美しさが際立つ。ここでいう美しさとは、装飾的なものではない。何の衒いもなく、しかも気品を保ちながら流れ出る旋律は、言ってみれば「ハイドン・マジック」とでもいうべき奇跡的なことで、それがここでも十二分に感じ取れる。
序奏は5分程度。すでに痛々しい悲しみが表現される。これに続き第1のソナタから始まる「7つの言葉」は、しばらく親しみやすいメロディーが続く。第1のソナタは3拍子である。これに対し第2のソナタは「グラーヴェ(非常にゆっくりと)」で、切々と重々しい。悲しみがこれでもか、これでもかと襲ってくる。「カンタービレ」でもあるので、歌うようなメロディー。そして第3のソナタも「グラーヴェ」。このあたりに来て、もうちょっとどうにかしてくれ、という感じになる。
第4のソナタはラルゴ。音楽の速度記号は、
- ラルゴ < アダージョ/グラーヴェ < レント < アダジエット
ここでハイドンは音楽に緩やかな変化をつけることをやめなかった。第5のソナタでは、ピチカートが印象を残す。ここで聞き手は気を取り直し、これはこれでいい曲だなあ、と思う。そう思ったところで結構な大きさのメロディーが切り裂くように響く。速度は遅くてもドラマティックである。
第6、第7のソナタはいずれもラルゴだが、ここはやや現代的というか複雑というか、つまりは音楽が深みを増す。第6のソナタは口ずさめるが、第7のソナタになると長調に転じ、少し明るい感じもするが、ここは終わりが近いと思って、このまま終曲になだれ込むしかない。余韻を残すかのようにピチカートで終わるあたりが憎い。
第7のソナタが終わるや否や、「地震」となる。ここで音楽は一気にプレスト(急速に)となる。キリストの死とともに大地は裂け、揺らぐ。数分の短い曲だが、何か一気に解放された感じがする。
音楽というのは怖いもので、時に人の心をゆさぶる。複雑に入り組んだストレスの多い現代人にとって、最後にたどり着くのはマーラーの晩年の曲かと思っていたが、意外にもハイドンのこのような曲が、実は「癒し」を与えてくれるような気がする。何を聞いてよいかわからないような時に、気持ちを慰めてくれるという意味である。
こうなったら次はオラトリオ版である。先の中古CD屋でオラトリオ盤も衝動買いしてしまったし。今年のゴールデン・ウィークはどこへも出かけず、音楽を聞く時間に費やしたいと考えている。
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