2017年5月3日水曜日

マーラー:交響曲第7番ホ短調(リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)

マーラーの交響曲の中でもっとも人気がなく、とっつきにくいとされている交響曲第7番について、素人である私が何かきちんとしたことが書くことができるとは思えない。そこで以下に個人的な3つのエピソードを書くことから始めようと思う。

(1)中学生時代、短波放送を聞くことを趣味としていた私は、外国の放送の聞いては放送局に報告書を書き、そのお礼に受信確認証というものをもらうということを趣味にしていた。米国からの放送には日本語放送がなく、英語放送を聞く必要があった。フィリピン中継のVOA(アメリカの声)放送は、日本でも大変良く受信できたが、私を苦しめたのは、放送内容がほとんどわからなかったということである。私は音楽番組なら何とかわかると考え、特にクラシック音楽は、比較的良く知っているので曲名もすぐにわかるだろうと考えた。

当時VOAには、確か土曜日にクラシック音楽を放送する番組があって、ある日私はその番組を聞くことができた(インターネットもない時代、何という番組がいつ放送されているかは、ほとんどわからないので、これは根気のいる作業だった)。オーケストラの長い曲が延々小一時間に亘って放送されただけのその番組は、時折深いフェージング(伝播障害)を伴い、音が大きくなったり小さくなったりする上に、雑音や混信による影響も受けるという短波放送特有の障害を伴うもので、辛抱をしながらも何とか。聞いたこともない大規模な曲を聴き終えた。さて何という曲なのか?

音楽が騒々しく終わって、アナウンサーが曲のタイトルを話した。「The Song of the Night」と言ったのは、私の英語力でも聞き取れた。マーラーの交響曲第7番「夜の歌」であった。演奏はアナウンスされたと思うがわからない。兎に角その内容で私は手紙をワシントンへ送った。「夜の歌」などというニックネームとは違い、随分やかましい曲に聞こえたのは、受信状態が悪かったからではない。だがそのような短波放送でも、マーラーは放送されるのだと思った。

(2)2度目の長い入院生活を終えたのは、真夏の暑い日であった。私は久しぶりに我が家のソファに腰を下ろし、自分がどこにいるのかわからないような不思議な感覚にとらわれていた。生きている、という実感も湧かない。これが6年前の時なら、喜んで踊りだしたくなるような気持だったのに。

6年前の退院時に聞こうとして取り出したCDは、軽快なウィンナ・ワルツだった。あふれる喜びとリラックスした気分にウィンナ・ワルツほど似合う曲はない、と思ったのた。だが2回目はそうではなかった。遭難した登山客が救助された時のように、まるで生きた心地のしない複雑な気持ちで、私は何か音楽でも聞いて気持ちを紛らわせようとした。いろいろ迷った挙句、その時に取り出したCDが、どういうわけかほとんど聞いたことのないマーラーの交響曲第7番だった。

喜びのあふれる気持ちのはずが、到底ゆっくり落ち着くこともできず、気持ちは落ち込んだり舞い上がったり、常に何かに煽られ、同時に邪魔をされているような気持ちだった。生きていることを実感するには時間を要した。だが長い時間をかけて、ただこの音楽に耳を傾けていた私の心は、次第に落ち着きを取り戻していった。マーラーの交響曲がこのような効果を発揮するとは思っていなかった。それ以来、私はマーラーが好きになり、そしてこの第7番が少しわかったような気がした。

(3)都会に住む現代人の生活は多忙で、精神的にもストレスが高い。少しでも自分の時間を取り戻そうと、少ない機会をとらえては携帯音楽プレーヤーなどで音楽を聴いている。私はモーツァルトやシューベルト、あるいはワーグナーでさえも持ち歩き、朝夕の通勤電車などでそれらを再生している。ところがイヤホンの外側では、けたたましい発車の電子音とともに怒鳴り声にも似た駅のアナウンスが鳴り響く。特に新宿駅の山手線ホームなどは最悪である。折角の音楽がこれでは台無しである。駅を離れて店に入ると、スターバックスのようなカフェでさえも、希望していないのに何らかのポップスがイヤホンの向こうから聞こえてくる。スーパーマーケットでも同様だ。もういい加減にしてくれ、と叫びたくなったその瞬間、私はもしかするとこれこそマーラーではないか?と思ったのだ。

あるメロディーを聞いていたら、それを遮り、打ち消すように違う音楽が聞こえ、それはあるときは雑音のようであり、また別の時には美しい別の音楽であったりする。音楽が関係なく交じり合い、聞く側の異なる感情も入り乱れ、さらにそれに合わせて心情も複雑に変化する。そうだ。マーラーの音楽は現代人の感覚そのものだったのだ。まだテレビもラジオもない時代、よくこのような音楽が書けたものだ、とある時私は感動した。その象徴的な曲は、もしかすると第7交響曲ではないか。

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交響曲第7番は第6番の完成後、間をおかずして書かれた。だから私も第6番に続けてこの交響曲を聞いている。私の感想からすれば、この第7番は第6番はもとより、第5番より親しみやすい曲である。音楽が楽しげでわかりやすいとさえ思う。マーラーの絶頂期に書かれたというだけでなく、この曲はハッピー・エンドなのである。ただそこはマーラー流の「苦悩から歓喜へ」という構造になる。スケルツォを挟んで緩徐楽章(夜の歌)が第2楽章、第4楽章におかれ、さらに両端の楽章がアレグロとなる。多くの打楽器が登場するのは第6番と同様だが、この曲は古典的様式をかなり逸脱しており、調性の乱れも甚だしい。一応ホ短調ということにはなっているが。

第1楽章は大河ドラマの主題曲のようである。各楽器のメロディーとその重なりを追っているだけであっという間に過ぎてしまう。これは第2楽章に入ってもかわらない。「ナハトムジーク」となっているので、夜の散歩の時に聞いているが、朝に聞いてもいい。第3楽章スケルツォもやはり楽器の特徴が随所に発揮される。3拍子の変化に富んだリズムも、サスペンス映画の途中で流れるような感じで、違和感などないどころか興奮する。

これに対し第4楽章は再びアンダンテの「ナハトムジーク」。ある時私はこの曲を聴きながら、仕事帰りの山手線で眠ってしまった。列車の走行音の後で、ずっと同じメロディーが鳴っていたように思った。管楽器が活躍し、さらにはギターやマンドリンまで登場する。イヤホンで聞くと、これらの多彩な楽器が余すところなく堪能できる。耳にこびりつく何とも不思議なセレナーデ。

終楽章は20分程度の曲だが、軽快な音楽で始まる。音楽を聴いて踊り出したくなるように嬉しくなるのは、マーラーの曲では珍しい。これを素直に喜ぶべきか、それとも強烈な皮肉が込められているのか、よくわからない。だが、私にとってそんなことはどうでもいい。時に商店街の大売り出しのようであったり、テレビ番組の主題歌のようでもあり、ハチャメチャというか支離滅裂というか、お祭り騒ぎの中に、どこか醒めている自分がいる。他の交響曲にあるような大宇宙を思わせる空間的広がりや、大爆発的感動をマーラーらしさというなら、この曲にそれを期待することはできない。だが私は、前半を精緻な演奏で、後半はさらにヴィルティオーゾなオーケストラで聞くこの曲も楽しいし、好きである。コーダの部分では、第6番でも登場したカウベルをはじめとするあらゆる楽器が登場し、ガチャガチャと鳴りながら、祝祭的とも言えるような雰囲気の中で騒々しく、そして華々しく曲が終わる。

リッカルド・シャイ―は、主兵のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して、デッカとしてはショルティ以来となる素晴らしいマーラー全集を録音したが、私はこの第7番こそはシャイ―に相応しい曲であるように思う。こんなに複雑な曲なのに、洗練された流れるような音楽が耳を捉えて離さない。ムード音楽のようでさえある。オーケストラが抜群に上手いが、それをさりげなくやってしまう。だが私は実際のことろ、他の演奏をあまり知らない。結構好きな曲になったので、手当たり次第に聞いてみたいと思う。いやコンサートがあれば、できれば前の方で聞いてみたい。なぜなら実演で聞いたのは、デイヴィッド・ジンマンがNHK交響楽団を指揮した時に、広いNHKホールの3階席で聞いた、ただ1回きりなのだから。

なお、この2枚組CDの最初には、オランダ人作曲家アルフォンス・ディーベンブロックの「大いなる沈黙の中で」という珍しい曲が収められている。バリトンの独唱(ここではホーカン・ハーゲゴード)が混じり、ワーグナーとマーラーを足したようないい曲である。

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