2018年8月13日月曜日

チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」(The MET Live in HD 2006-2007)

広く高い舞台空間に、紅葉して赤や黄に染まった落ち葉が全面に敷き詰められている。この情景で季節は収穫期を迎えた秋の夕暮れだとわかる。けれどもそれ以外に、この場面を説明するものはない。地域も時代も。やがてそこでリンゴの皮を向く中年の女性たちが、「娘たちが歌っているわ、過ぎ去った昔にも、私がそうしていたように」とロシア語で歌う。時代背景については、その内容から次第に明らかとなっていく。夏のMETライブのアンコール上演で接したロバート・カーセンの演出によるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」は、10年以上も前の2007年の上演で、舞台上にほとんど何もない、というものだった。

やはりこの時期に制作されたウィリー・デッカーの「椿姫」を思い出すまでもなく、いわば流行の演出というものがあったのだろうと思う。登場人物の心理描写に焦点を当て、必要最小限の物体のみを象徴的に残したうえで、その他のものを大胆に排除するこのような演出は、最初の印象こそ刺激的ではあるものの、飽きが来やすい。そのためだろうか、METライヴで取り上げられた次回の「エフゲニー・オネーギン」は、新しい演出となり、舞台はわかりやすいロシアの田園風景に戻された。第2幕での決闘のシーンでこそ、登場する人物中心に焦点が当てられたが、第3幕では華麗な舞踏も披露され、一転華やかな舞台に高貴な女性へと変貌したタチヤーナの衣装が映えるものだった。

それに比べると、このような上演に接するには想像力を養う必要がある。常に頭を働かせ、歌詞の内容や音楽から、ありったけの知識を総動員しながら、登場人物の動機や心理を考えなくてはならない。それはつまり、大変集中力が要ると同時に、見ている者の知識の水準が試される。各人が同じ印象を抱く確率は、どうしても少なくなる。初めてこの劇を見た時に知り得た情景でさえ、私は思い出す必要があった。思い出すことができない場合(いや、初めてこの作品に接する人がそうだろう)には、一体どういうことになるだろうか。要するにあまりに情報量が少ないのだ。CDを聞きながら歌詞を追う時に働かせる想像力とも少し違う。なぜなら私たちは、舞台上の歌手たちを目で見ている。その表情はカメラが確かに捉えているのだから。

けだし不思議な感覚である。デッカーの「椿姫」は、もう来シーズンには登場せず、新演出となることが決まっている。音楽はそのままに舞台のみ解釈を変えるという上演は、そもそも総合的な芸術であるオペラにおいて、演出家のウェイトのみが大きくなるという弊害を伴っている。そのことをまず踏まえたうえで、聴衆が作品に一般的に期待するイメージを、私は大切にしてほしいと思う。なぜなら普通の、多忙で金銭的にさほどゆとりのない私のような聞き手は、一生にそう何回も同じ作品の上演に接することなどできないからだ。

前置きが長くなったが、カーセンの「エフゲニー・オネーギン」は、そのように私を少しがっかりさせた。第2幕がそのまま第3幕につながれ、有名なポロネーズの音楽に乗って見せられるのは、なんとオネーギンの着替えのシーンである。この最大の娯楽的数分間に、数年間の時代の遷移を想像するという努力をしなくてはならない。これは私にとって大いなるフラストレーション以外の何物でもなかった。

ただ事実としては、チャイコフスキーはこの作品を、小さな芝居小屋で上演するような演劇として作曲し、初演している。この演出は、そういう意図に沿うことを意識したのかも知れない。室内楽的な緻密さと繊細さによって、抒情的なメロディーは一層深みを増し、心理的な要素を強調する結果となる。もちろんそのことを可能とするだけの、歌手の技量を伴っての話である。嬉しいことにこの点に関しては、この公演はほぼ満点の出来栄えであった。もしタチヤーナをルネ・フレミングが、レンスキーをラーモン・ヴァルガスが、オネーギンをディミトリ・ホヴォロストフスキーが歌わなかったら、こういう結果にはなっていないだろう。

なぜ今夏、このような古い方の舞台をアンコール上演したのかは、想像の域を出ないのだが、おそらくは去年55歳の若さで死亡したホヴォロストフスキーを偲んでのことと思われる。彼はこの上演の後に脳腫瘍を患い、闘病を続けていた。まるでオネーギンを歌うために生まれてきたとさえ言えるような貫禄は、この舞台からも彷彿とする。一方、ルネ・フレミングのタチヤーナは、先に見た次のプロダクションで歌ったアンナ・ネトレプコがほとんど完璧といえるような歌と演技だったため、見劣りがするのではと少し心配だった。けれどもそれは、まったくもって杞憂だった。長い「手紙の歌」は、舞台に机とベッドだけ。それでも長時間、聴衆を釘付けにし、圧倒的な歌唱を披露した。私はこれほど上手いフレミングを初めて見たような気がした。

レンスキーを歌ったヴァルガスはメキシコ人で「ロシア人に見えない」などとインタビューで笑っているが、イタリア・オペラ風でもあるその歌い方にも違和感はなく、むしろ艶のあるテノールの美声は、決闘を前にして歌う「レンスキーのアリア」を始めとして聞くものを圧倒した。

さらに脇を固める3人の歌手は、これもまた見事であった。オリガのエレーナ・ザレンパは、熟練の味わいで、素朴ながら力強い芯のあるロシアの女性そのもの。ロシア語ともフランス語ともつかない奇妙な歌を歌って当時の上流階級を皮肉ったひょうきんな家庭教師トリケは、当時の歌謡曲を模して作曲されたというシャンソンを歌ってコミカルな雰囲気を醸し出し、舞踏会のシーンに彩を添えた。さらには終幕で、タチヤーナの夫となったグレーミン侯爵を、バスの重鎮とも言えるセルゲイ・アレクサーシュキンが歌い、ロシアの歌はかくあるべし、といった感のある安定したバスの歌唱で満場の拍手をさらった。

オネーギンは厭世的で、鼻持ちならない自尊心を持つ若い貴族だが、放浪の旅から帰って来てタチヤーナに出会うや否や、本当の恋に目覚める。立場が逆転する男女は、実際には今でも思い合っているのだが、タチヤーナの決然とした理性から結ばれることはない。フランス・オペラのように殺人事件になったり、イタリア・オペラのように心中したりもしない。タチヤーナは、(かつて自身がそうされたように)オネーギンに率直に絶縁を告げる。そこに復讐の意図はない。だからこの作品は、素朴な味わいが損なわれることなく終わる。オネーギンは、失恋してもなお、これは恥辱であるとプライドを隠さない。そのことが本作品の、もっとも印象に残るところだ。

この作品に溢れる抒情的なメロディーは、聞くものの心をとらえる。歌劇「エフゲニー・オネーギン」の序奏の出だしから、私はまだ見たことのないロシアの広大な情景へと誘われる。オペラの伝統のなかった国で、イタリアにもフランスにも負けないくらい美しい作品が誕生した。メロディーはそのまま単純に演奏したら何の変哲もない音階である。だがそこにメランコリックな表情をつけると、見違えるほど豊かな抒情性を身に着ける。幕間に流されたメイキング・ビデオで指揮者のワレリー・ゲルギエフは、そのことを一瞬のうちに示して見せる。その瞬間にチャイコフスキーの音楽の神髄に触れたような気がした。

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