2018年8月2日木曜日

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64(Vn:ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ、ジェラード・シュウォーツ指揮ニューヨーク室内交響楽団)

ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーンの3つのヴァイオリン協奏曲を「三大ヴァイオリン協奏曲」と呼ぶ習わしがある。ベートーヴェンとブラームスはわかるが、どうしてもう一つがチャイコフスキーではなくてメンデルスゾーンなのだろう、と思っていた。もしかしたらこれは、ドイツ人の仕業ではないかと思うが、それもあながち間違いではないだろう。けれどもメンデルスゾーンが評価されてきたのは戦後のことで、それまでのドイツでの評価は低いままだった。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、ヴァイオリンでないと表現できないような甘美なメロディーに溢れ、冒頭など一度聞いたら忘れられないようなインパクトがある。最近出版された百田直樹の「クラシック 天才たちの到達点」(PHP研究所)にもこの曲が取り上げられており、「まるで魅惑に満ちた女性のように、時に優しく、時に情熱的に、また時にはエロチックとも言えるほど情緒たっぷりに語りかける」(第1楽章)と書いている。

だが、それぞれ曲の演奏について語る段落で、この作品に関しては「名盤は山のようにある」とだけ語り、何人もの古今東西の著名なヴァイオリニストを列挙するにとどめられているのは物足りない。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(と言って区別するのは、もう一曲ヴァイオリン協奏曲があるからだ)の演奏の差異について語ることは、実は結構難しいのかも知れない。あるいはまた、誰の演奏がどのように自分にとっていい演奏なのかを見つけ出すのは、この曲に関する限り、多くの人が困難だと考えているきらいがある。実は私も長年そうだった。

その理由は、メンデルスゾーンに対する評価が低い期間が長く続いたことで、演奏上の魅力発見が十分になされてこなかったからではないか、と私は考えている。まだ60年代の頃は、ヴァイオリニストと言えば男性の技巧派の巨匠が中心で、この曲をみな軽々と演奏して終わり。まあこんなものですよ、という雰囲気がする。決して悪いわけではないのだが、ハイフェッツにしても、オイストラフにしても、フランチェスカティにしても、スターンにしても、同様の傾向がある。

70年代以降は逆に、若手ヴァイオリニストのデビュー曲としてもてはやされ、女性であれ男性であれ、新鮮で爽快な明るさはあるが、どことなく真面目で表面的であっさりとしている。チョン・キョンファ、ムター(旧盤)、ケネディなど。しかしこの曲がそんな薄い曲なのだろうか。何せ「三大ヴァイオリン協奏曲」である。作曲に6年もの歳月を要した本作品は、モーツァルトのようにさらさらと書かれた作品ではない。急げと言うのはわかるけど、そう簡単なものではないのですよ、とメンデルスゾーンは作曲を約束したゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスター、フェルディナント・ダーヴィットに宛てた手紙に書いている。

私は中学生の頃、教科書に載っていたこの曲を、音楽鑑賞の授業の中で聞かされた。協奏曲の説明をするのに、なぜピアノ協奏曲ではないのか、なぜモーツァルトではいけないのか、やはり不思議だったが、そういうこともあってメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を真剣に聞いた(試験に出るからだ)。

ある時、カセットテープでこの曲を聞いているうちにうとうと眠くなってしまい、気が付くと何か深々としたメロディーが流れている。その表現にこれがロマン派かと思った。そして終わったと思っていた第1楽章がまだ終わっていない。カデンツァ(もまたメンデルスゾーンが細かく作曲したものだ)が終わってもさらに第1主題が弾かれる時、ここのヴァイオリンがオーケストラと絡み合ってゆく様は、ゾクゾクさせる。やがて途切れることなく続いていく第2楽章の抒情的なこと!しかし、終結部のように音楽が一瞬終わるかに見える途切れの後に、ひと呼吸を置いて第3楽章の明るい曲につながっていく。ここの推移部の見事さは、ベートーヴェンを意識したものだろうか。

そういうわけで、もっと深々としたロマンチックな演奏ができないものかと常々考えていた。しかし上記のように、この曲の演奏はみな表情の変化に乏しく、まるで古典派の曲のようである。実際にはもっと多様な表現が可能な魅力を秘めているはずなのに。

そう思っていたところ、昨年NHK交響楽団の定期公演で聞いたニコライ・ズナイダーの演奏に大きな感銘を受けた。私が聞きたかったのは、こういう演奏だったと思った。けれども広いホールの3階席では、この演奏の魅力が伝わりにくい。ズナイダーはメータやシャイーとこの曲を録音(録画)しているようだが、残念ながら私はまだ聞いていない。とてもきれいな音色のヴァイオリニストである。表現の多彩さを極めたような演奏はないものかと、80年代以降に録音された演奏をあれこれ聞くうち出会ったのが、ナージャ・サレルノ=ソネンバーグによる1987年のデビューCDであった。

サレルノ=ソネンバーグは、実は過去に2回実演を聞いている。いずれも1995年のニューヨーク滞在中でのことで、一度目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番(アンドリュー・デイヴィス指揮BBC交響楽団)、2度目はそのわずか2か月後に、ショーソンやラヴェルの短い曲(ジョルジュ・プレートル指揮フィラデルフィア管弦楽団)の演奏である。その時の印象はあまり強いものではなかったし、また若い女性のヴァイオリニストが登場したな、といった程度だったのだが、彼女ほど奔放な演奏家もないのでは、と思うほどにこの演奏はユニークである。いやむしろ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をこれほど情緒たっぷりに演奏した演奏は他にないのではと思う。

いろいろ調べて行くと、彼女はその後指の怪我を負い、演奏家としての危機を迎える。私が聞いた95年頃は、まさにその復活途上にあった頃のようであった。その後彼女は見事に復帰し、我が国にも登場しているようだが、私は詳しいことは知らない。この曲を始めとして、数々の演奏はどれも個性的なようで、私も聞いてみたい気がするが、まずはこのCD、「余白」に収録されたサン=サーンスの「ハバネラ」と「序奏とロンド・カプリチオーソ」、それにマスネの「タイースの瞑想曲」を含め、極めて魅力的である。色彩感あふれる演奏は、伴奏のジェラード・シュウォーツ指揮ニューヨーク室内交響楽団(こんな団体は知らなかった)の協力的な伴奏と見事にマッチしている。知に情が勝るような演奏のふりをした、デフォルメされた部分は、9分半に及ぶ第2楽章を中心に全体に及んでいるが、決してもたれることのないメリハリのある面を持っており、フレッシュで現代的である。もしかしたらその後の演奏にも影響を与えているようにさえ思えてくる名演奏である。

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