2018年8月18日土曜日

ベッリーニ:歌劇「ノルマ」(The MET Live in HD 2017-2018)

ノルマはポッリオーネを巡るアルダジーザとの「女の闘い」に敗れたのかも知れない。だが彼女は最後、自らの命を絶つことによって、この身勝手なローマの将軍の愛を手に入れた。二人の子供を父親に託して。

古代ローマが支配するガリア地方の森に宿るドイルド教徒の巫女長ノルマを主人公とするベッリーニの歌劇「ノルマ」は、ベルカント・オペラ最高の作品であると言われている。私もMETライヴでロッシーニ、ドニゼッティ、それにベッリーニの主要な作品に接してきたが、とうとう最後に「ノルマ」を見る時がやってきた。そしてその舞台は、この上演史の一角を争うであろう高水準のもので、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。自らケルト人の血を引くという彼は、舞台いっぱいに森の中を再現し、その舞台が上下にスライドするとノルマの家が現れる。ノルマは木の根の下に住んでいるのである。

暗い舞台は最終シーンになるまで暗いままである。だがカルロ・リッツィによって指揮されたオーケストラの、時には溜を打って歌手に合わせ、時には推進力が明るいメロディーに溶け合う見事な伴奏によって、めくるめくようなアリアや重唱のシーンが、飽きさせることなく次々と展開していく。特に第2幕に至っては、この間奏曲から最後の瞬間まで、丸でヴェルディの音楽ではないかと間違うほどドラマチックな力強さに溢れる様は鳥肌が立つほどで、この音楽が後の作曲家に与えた影響は大きなものだっただろうと想像させるに難くない。

実は私は昨年の11月に、この公演の模様が上映されたときに一度見ている。この時の内容があまりに素晴らしかったので、今回、もう一度会場へ足を運んだのである。METライヴの作品はもう80作品以上見てきているが、2回見たのは初めてのことである。それくらい私は打ち震えるような感動を味わったし、このブログも最初ではなくアンコールの際にもう一度見てから書くと決めていた。半年以上が経って改めて見ていると、半分は忘れていたものが蘇り、また半分は新たな発見をすることとなった。この間、私はマリア・カラスが歌うこの作品の歴史的名演奏をWalkmanに入れて持ち歩き、幾度となく耳にしてきたというのに・・・。

「ノルマ」は、少し聞くだけでとても完成度の高い作品だと思う。序曲を聞くだけで劇全体を覆う様々なメロディーが登場し、それらが要所要所の歌の旋律を思い出させてくれるので、ここを聞くだけで期待が高まるのだ。まず登場するのは長く圧制に苦しむドルイド教徒たちだが、その合唱に続き、まずはポッリオーネ(マルタ人のテノールのジョセフ・カレーヤ)がアリア「彼女と共に」でリリカルな歌声を披露することから始まるが、ここからしてぞくぞくする。ローマの将軍の彼はこれまで敵方の巫女ノルマと通じ合っていたが、今ではその愛も醒め、あろうことか別の巫女の見習いである若いアルダジーザ(メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート)に好意を寄せているのだ。

やがて民衆の期待に応えてノルマ(アメリカ人ソプラノのソンドラ・ラドヴァノフスキー)が登場し、イタリアオペラの中でも最高のアリア「清らかな乙女」を歌う。登場していきなり、実力が試されるのだ。以降、ノルマはほぼ舞台にずっと出ずっぱりで、その歌も重唱が多く、難易度が高い。今回の演出は、そこに演技の様子まで加わるのだから、彼女曰く「ブリュンヒルデを3回歌うよりも難しい」とのことである。最高難度の役というわけだ。

ノルマというとマリア・カラスである。カラスの歌うノルマの録音は、正規録音が2種類、実況録音もあるが、モノラルの実況盤が歌に関しては最高らしい。もっとも私は共演者も含めた総合点で、セラフィン指揮のスタジオ録音盤(後年の)を持っているが、ラドヴァノフスキーの歌声はカラスにはあまり似ていない。むしろジョーン・サザランドのような系統ではないかしら。こちらもパヴァロッティなどと共演した録音があるので、一度聞いてみたいと思っている。

アダルジーザはノルマよりは低い声で歌われるが、存在としてはむしろ若くて純粋な性格付けがされている。ノルマも去ったあとで、彼女は短いアリアを歌い、これで主役3人のお披露目が終わる。 そしてここからは第2場を通しても、重唱の連続である。第1幕後半のノルマとアダルジーザの丁々発止のやりとりに、ポッリオーネまでが加わって舞台は緊張と興奮の中で進行するのだ。第2場の舞台は、(この演出版では森の地下にある)ノルマの家で、二人の子供が登場し、見る者の心にノルマの悲劇的な気落ちが伝わってくる。

第2幕になると、舞台はいよいよ緊張を高めて行く。ノルマはポッリオーネとの恋に破れ、このままでは二人の子供がローマで悲劇的な生活を強いられると予想し、子供を死なせようとまで思い詰めるのだ。だが彼女にそれはできない。そればかりか、アダルジーザに対する憎悪をむき出しにして、揺れ動く彼女の心情が千変万化する。面白いのはベッリーニの音楽が、登場する立場の違う二人によっても同じ旋律で歌われることだ。歌詞は違うが、このような歌をただCDなどで聞いていると、綺麗な歌に聞き惚れているだけで、その中に潜む対立がよくわからない。映像で見る「ノルマ」は、そういう意味で耳で聞くよりも何倍もよくわかる。

ノルマとアダルジーザの心理変化は、長い二重唱のテーマである。ラドヴァノフスキーは何度もノルマを歌っているそうだが、ディドナートは今回がこの役のデビューとのことだった。インタビューではディドナートは、ラドヴァノフスキーの「胸を借りて」演じていると答えていたが、力が入りすぎていて、もしかしたらノルマよりも力強い表現だったと思う。もっとも若いアダルジーザの方が、いまやポッリオーネの心を掴んでいるのだから、その方が現実味がある。ただ、ノルマが感じるほどにアダルジーザは悪意はなく、むしろ清らかで純粋な存在だと私は思う。この二人の表現の違いをどう解釈し、舞台に求めるかがこのオペラに対する好みや評価の中心だろう。

最後には二人の子供をアダルジーザに託し、自分は諦めると決心するノルマに対し、アダルジーザも自分こそ身を引くと言い張る。あるいはアダルジーザがポッリオーネを改心させると言い残し、ポッリオーネの元に走るも説得が効かないことを告げられ、再びアダルジーザに憎悪を抱く、といった有様で、女性同士の心情の対立はもつれにもつれる。どちらの役も一方より弱いと、この丁々発止の場面はうまくいかないだろう。だが今回の上演は、見事につきる。歌声が絡み合い、その歌詞とは別にめくるめく陶酔のシーンに事欠かない。

最後になって、いよいよ裏切られたノルマはローマ軍への蜂起を決意する。高僧の悪露ヴェーゾ(バスのマシュー・ローズ)が歌うただ一つのアリア「テレべの不当な圧制に」は重量感が溢れ、合唱との対比や掛け合いなど、ヴェルディの作品に受け継がれた要素が多く見受けられる。二人の子供を彼に託すよう説得すると、彼女は自ら犯した罪を認め、生贄になることを宣言する。捕らえられたポッリオーネは、もはやノルマに対して改心し、自分も死をもってノルマへの愛情を示すとき、ノルマの心はアダルジーザに対する憎悪も消え、純粋で気高い心が高らかに歌われる。

ヴェルディはこのオペラからどれほど多くの影響を受けたのだろうと思いながら、ずっと舞台に見入っていた。日本では「ノルマ」を始めとしてベルカント・オペラを見る機会が少ない。これほど難易度の高い歌を歌える歌手は、そう多くはないのだろうと思う。だからMETライブは貴重な機会と言える。直前の「魔笛」に比べると客席は閑散としており、そのことが一層、何かとても贅沢な時間を過ごしていと感じながら過ごした3時間半だった。

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