2018年9月6日木曜日

ミュージカル:「コーラスライン」(2018年9月5日、東京国際フォーラム)

1990年3月下旬、生まれて初めてニューヨークを旅行した私が目にしたのは、1975年に初演され、1976年にトニー賞に輝いた人気ミュージカル「コーラスライン」が、その15年に及ぶ史上最長のロングランに幕を下ろすというものだった。その時は数多くのオペラ、コンサートには出かけたが、ついにブロードウェイには足を運ぶ時間(というかお金が)なく、ミュージカルというものに触れるのは再度ニューヨークを訪れた1995年までお預けになってしまった。

その1995年には、「コーラスライン」に変わって最長記録を打ち立てた「キャッツ」が話題の中心だった。「キャッツ」は私も見たが、どこがいいのかよくわからない。ただこれもアンドリュー・ロイド=ウェッバーによる音楽がきれいな英国製の作品である。だがこれも過去の話題となり、その後「ライオン・キング」が「キャッツ」の上演回数を上回り、さらにその上を行くのが「オペラ座の怪人」である。私はこれらの作品がそんなにいい作品とは思えない。好き嫌いかも知れないが、だとすれば好みの作品ではない。

さて、私はその時から「コーラスライン」を見逃したことを少し悔やんでいた。この作品を映画作品として見たのは、1990年代のことだった。映画化は1985年のことで、監督は英国人のリチャード・アッテンボローである。この時思ったのは、この作品が有名な音楽「One」に合わせて踊るダンスが、とてもシリアスだということだ。底抜けに明るいアメリカ製のミュージカルが多い中で、この作品はオーディションに仕事を求める若者たちの赤裸々な生い立ちを告白するシーンの数々によって、むしろ心理描写にも焦点が当てられ、よりストーリー性に深みが増してゆく作品である。

数十人の応募中から、厳しい審査によってわずか8人が選ばれる。その非情であからさまな合格発表によって幕が下ろされる時、米国社会のシビアさとドライさが浮き彫りにされる。徹底した実力社会に立ち向かう無名の若きダンサーたちは、このオーディションに合格したからと言って、将来が約束されるわけではない。なぜならこのダンスは、主役を引き立てるために踊られる脇役に過ぎないのだから。

後味はむしろスッキリしない。けれども物語が終わったその後に再度「One」が踊られる。物語の内容とは違い、一級のダンサーが踊るのだから悪かろうはずがない。鏡を背後にカラフルな照明に照らされて、様々な人種や容姿のダンサーが、次から次へと踊る。ダンス中心のミュージカルを、堪能することとなる。

ミュージカルはオペラのように、同じ作品をあちこちで上演するのではなく、都度結成され、演出されるのが通常である。だから見逃してしまうと、もうそれに触れる機会はなかなか訪れない。日本では劇団四季が、人気作品を俳優を変えて何度も上演しているが、本場でもそのようなことはない。だから私が、JR大崎駅構内で「コーラスライン」のポスターを見た時には、これを見逃す手はない、と思った。30年前に見逃した作品を、やっとのことで見ることができると思ったのだ。

その上演は、東京国際フォーラムで行われた。ところが会場に入って驚いた。何とオーケストラ・ピットに誰もいないのである。イタリアのオペラ・ハウスではしばしばこのような光景が見られると言うが、その理由はストライキである。だが今回の公演がキャンセルになったという話は聞かない。だからこうやって多くの客が入っているのだ。

どうなるのか思った音楽がいつのまにか舞台の袖から聞こえてきたが、それはまるでテープ収録された音楽で踊るバレエの来日公演のようである。台詞の合間に歌が挟まれるため、音楽はどこかで演奏しているのだろうと思う。だがそのプレイヤーはついに最後まで姿を見せなかった。もちろん指揮者もである。

舞台は踊りと台詞のみで進んでいった。両脇に字幕があるので、英語のわからない観客は字幕を追うのが忙しい。ストーリーが半ばどうでもいいオペラと違って、セリフは結構重要である。しかもダンスに見とれていると、字幕に目を移すのが大変である。今回はしかも、1幕構成だった。これも常識外れで、通常ミュージカルは比較的長い第1幕と、短い第2幕の間に休憩時間がるのが通常である。出演者も大変だと思ったが、客席も戸惑うばかり。

最初はどうかるかと思ったが、中間部でオーディションに募集したひとりひとりへの面接が始まると、複雑な生い立ちや家族関係に話が及んでいく。その中にディレクターのかつての恋人、キャシーもいる。このミュージカルの面白さは、この部分でのやりとり。そこに米国社会の側面を感じることができる。そう考えると、最近のミュージカルにはそのような社会性や同時代性が失われていることに気付く。

「コーラスライン」はもう半世紀前の作品で、今となっては古い作品になってしまった。客席に若い人もいたが、結構中高年の姿が目立つ。ブロードウェイでも2006年にリバイバル上演されたが、2年ももたなかったようだ。かつて一世を風靡した作品も、いまや純粋に共感できる層が減ったのだろうか。そう考えると米国だけでなく世界の社会風潮も変わってしまったのだろう。そんなことまで考えながら、何か懐かしい感じのする2時間の公演を見ていた。もしそうでなければ・・・(実際私はそう希望するのでが)この公演自体が物足りないものだったからかも知れない。もし1990年、本場で見ていれば、私も20歳の若さだったし、もっと強烈な印象を残す経験になっていたのかも知れない。

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