2018年9月1日土曜日

デア・リング東京オーケストラ・デビューコンサート(2018年8月31日、三鷹市芸術文化センター)

音楽を聞くというよりは、音響を楽しむというコンサートだった。

デア・リング東京オーケストラという聞きなれない団体によるメンデルスゾーンとベートーヴェンである。それもそのはずで、このオーケストラは録音のみを専門とする特別編成のもので、主宰人でもあり指揮者を務める西脇義訓という人物は、レコーディング・エンジニアとして日本のレコード会社に勤めていたという経歴が紹介されていた。本公演はそのデビュー・コンサートだということだ。

私はもう長い間、我が国のレコード雑誌である「レコード芸術」(音楽之友社)を読まなくなっているが、もしこの雑誌を購読していたら、あるいはこのオーケストラの存在を知っていたかも知れない。2013年に設立され、すでに6枚ものCDをリリースしているこの団体が、なぜ今頃になってステージ・デビューすることになったか、その理由を指揮者は自らマイクを手にして説明した。

それはこのオーケストラ独特の、音響に対するこだわりによる。この音の良さは、実演で接しないとわからない、と忠告されたからであるとのことである。ではその音とはどのようなものか。それを知るには、この団体のホームページを見るといい。驚くのは、その楽器配置である。特に決まっているわけではないようだが、曲に合わせて実に様々な形態に配置を変える。たとえば今回のプログラム最初の曲、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲では、オーケストラのメンバーが全員前を向いて、まるで小学校の教室にいる児童のように整列している。現れた指揮者は、何と観客席を向いてタクトを振り始めた・・。

各自に譜面台が配置され、必ずしも指揮者を凝視しないプレイヤーは、自らの音感でアンサンブルを構成してゆく。指揮は最低限の出だし、あるいはテンポを指示するのみである。おそらく練習の時には、ああでもない、こうでもないと細かい試行錯誤を重ねてはいるのだろう。だがその先にあるのは、各人が自ら把握した音楽をそのまま再現する。まさにそれは録音を専らとするから可能なものなのだろう。

メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の場合には、オーケストラのメンバーが散在している。たとえば3人いるコントラバスは、最右、最左、中央奥に散らばっている。二人のホルンも両端に分かれている。第1バイオリンも第2バイオリンも、勝手にバラバラではなく、意図された配置についているが、その配置は従来のオーケストラのように、各パートが固まっているわけではないのだ。

しかもこの曲では、全員が起立して演奏する。その結果成り響いた音色は、(私が勝手に例えるなら)あのクレンペラーの演奏を生で聞くような音がしているのだ。オーケストラが全体に持ち上がり、相当な空間的広がりを持っている。このような経験は初めてである。

休憩時間にはその演奏が早くもロビーに設置されたオーディオ装置で再生され、多くの人が聞き入っている。これはオーディオ・マニアが自ら自分の音を追い求める究極の娯楽である。ただ面白いのは、オーケストラの音をいかに忠実に再生するのか、ということではなく、かつてアナログ・レコードで聞いた音をいかに舞台で再現するか、という真逆のアプローチであることだ。これはいわばアマチュアにのみ許される暴挙ではないか。だが誰も思いつかなかったことでもあろう。

ベートーヴェンのロマンスは指揮者なしで、すなわち独奏を担当した森岡聡によってアンサンブルが奏でられ、そのあとは第7番の交響曲となった。この演奏で、私はカラヤンによる最後のベートーヴェン全集の演奏を思い出した。なぜカラヤンやクレンペラーを思い出すのか。それを解くと、かつてEMIやDeccaに存在した伝説的なプロデューサーにたどり着く。ウォルター・レッグやジョン・カルショーといった名レコーディング・エンジニアは、デジタル録音とともにその存在価値を消失していった。ここで西脇が目指したのは、こういった昔の、レコード上でのみ存在したオーケストラ音の再現ではないか。

カラヤンやベームといった指揮者の演奏を聞いてクラシック音楽に開眼した世代は、舞台上で繰り広げらっる実際のオーケストラの音とも異なるこういった録音の技術による音楽に、むしろその原点がある。そういう意味では、私もその一人なのかも知れない。ただ西脇が述べているのは、バイロイトでの響きのことである。ここで舞台の真下に隠れているオーケストラの音が、いくつかの壁に反射して鳴り響く音を理想としている。それはあたかも霧のように天井から降り注ぐかのような音がするというのである。

私はバイロイトに行ったことがないし、ワーグナーともなれば広い舞台に多くのプレイヤーを集めて演奏しなければならないから、今の編成では不可能だろう。だが、「ニーベルングの指環」から取られたオーケストラの名称を考えると、やがてはワーグナーを聞いてみたいとは思う。いやこの編成なら、「ジークフリート牧歌」くらいは可能だろう。あと聞いてみたいのは、ビゼーの交響曲だ。

この演奏会は、私にとって懐かしい三鷹市文化芸術センターで行われた。残響が多いこのホールでは、ちょっと音楽がやかましい気がしないでもない。同時に一人一人に手渡された第6弾のCD(モーツァルトのパリ交響曲とハイドンのロンドン交響曲などが収録されている)も聞いてみようと思う。若いメンバーが多いオーケストラの響きは、大変よく練習したこともうかがえ、だからこそこういう大胆な演奏が可能であることを思わせた。

本公演をわずか2日前に教えてくれた弟と、雷雨の去った三鷹駅への道を歩きながら、かつてこの近くに住んでいた時と変わらない街並みを楽しんだ。音楽が常に会場を満たし、どのような小さな音色のときでも音の美しさを表現されると、なぜか非常に疲れた気がした。だがこのような面白い演奏も、一愛好家の私にとっては歓迎である。なお、アンコールにはバッハの「マタイ受難曲」からコラールの一節が演奏されたことも付け加えておく。

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