2018年9月16日日曜日

NHK交響楽団第1891回定期公演(2018年9月15日、NHKホール)

記録によれば、これまでに300回近い数のコンサートに出かけてきたが、喜歌劇「こうもり」を除けば、ヨハン・シュトラウスを代表とするウィンナ・ワルツの演奏を聞いたことはほとんどなかった。お正月恒例のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを始めとして、知っている曲は数多く、CDやDVDの類もかなりの数所有しているにもかかわらず。

その理由の一つは、これらの曲がポピュラーすぎて、クラシック音楽としての風格に欠けるため、通常のコンサートではほとんど取り上げられないことである。また今一つは、ウィーン訛りのワルツを演奏することに対する遠慮だと思う。どんなにいい演奏しても、通はこう言うに違いない。「やはり本場の演奏にはかなわないね」。

でも思い起こしてみると、これら当時の「流行音楽」は、ご当地のウィーンにおいてでさえお正月のようなごく特別な時に、しかもマチネで演奏されるだけである。もしかするとウィーンでは身近過ぎるのかも知れない。結局、ウィーン・フィルのワルツを聞こうと思えば、今では日本人観光客が主流のベラボーに高価なパック旅行に参加する以外に方法はない。何もウィーン・フィルでなくてもいいではないか、と言われるかも知れないが、だとしてもこれらの曲はやはりウィーンに行って、モーツァルトのような恰好をしたアルバイトの学生から当日のコンサートチケットを買うか、さもなければお正月に大挙して来日するご当地の団体の「ニューイヤーコンサート」に法外な大金を払って聞きに行くしかない。

そんな、意外に実演に接する機会のないシュトラウスの名曲が、NHK交響楽団の定期公演で取り上げられるとわかったから、私は発売されると同時に1階席を買ってしまった。しかも指揮は首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ。さらに素晴らしいのは、後半にはマーラーの交響曲第4番が演奏されるということだ。こんな贅沢なコンサートは、すぐに売り切れるに違いない、と私は確信した(実際には当日券もあったから、わからないものだ)。

そんな異色の取り合わせのコンサートを、一言で言うなら、ヤルヴィはこの組み合わせによって、ウィーンの持つ古き良き時代を暗黒の世紀末の奥に置くことにより、光と影を際立たせた。21世紀の現代から100年以上前の時代を見渡すと、ヨーロッパの輝かしい貴族文化が、異様な影を帯びて見えてくる。シュトラウスが陽とすれば、マーラーは陰の音楽である。この両者が共存していた19世紀末という時代に思いを巡らせるとき、明るく陽気である円舞曲の中に、静かに忍び寄る恐怖と絶望を、あえて見ようとしない楽天性が恐ろしくなってくる。もしかしたらこれは現代に通じることではないか?

それでもマーラーがシュトラウスの音楽を愛好し、大反対を押し切って「こうもり」を宮廷歌劇場で上演したと聞くと、何かほっとする。人間は苦悩だけを背負って生きるわけには行かない。喜怒哀楽の様々な要素が生活の中にはあり、音楽にもまたそれを反映したものだからである。

ヤルヴィのシュトラウスは、喜歌劇「こうもり」序曲のわくわくするような演奏で始まり、「南国のばら」の底抜けに明るく豪華な香りとともに進んでいった。1階席前方で聞くN響の音は、やはり違う。最近、私は前方の席で聞くコンサートの音と3階席のそれとでは大きな違いがあることを発見した。両者が距離にして3倍離れているとしよう。例えば1階席の10メートルの位置と、3階席前方の30メートルの地点を比べてみるといい。音の大きさは物理法則から距離の二乗に反比例するから、3階席は1階席の九分の一の大きさの音を聞いていることとなる。でも実際にはそれほど小さな音には聞こえない。これは反射による音が加わるからで(残響と言ってもいい)、ということは両者は、同じ音楽でも実に異なる音を聞いているものと思われる。

1階席前方で聞くシュトラウスの音楽は、勝手なことを言えば、一流の海外オーケストラを聞いているのに遜色がないばかりか、おそらく彼らにしても同様の音響効果のもとに評価されることを思い起こさせた。ヤルヴィの楽しそうな指揮は、ツボを得た統制とN響の自発性がよくブレンドされたことによって、DVDで見るウィーンの演奏に引けをとらない。いや音楽は、やはり実演ほどいいものはないと改めて思う。

ポルカ「クラップフェンの森で」に続き「皇帝円舞曲」となると、もう贅沢極まりない気分である。ウィーン・フィルの演奏でも最近は特に、知っている曲が続くことはない。「皇帝円舞曲」の名演は古くはフルトヴェングラーからカラヤン、アーノンクールなど枚挙に暇がないが、この名曲をしっとりと実演で味わう魅力には変えられない。そして最後にはヨーゼフ・シュトラウスの「うわごと」が演奏された。手元にあるディスクを探してもほとんどお目にかからないこの曲は、「天体の音楽」と並ぶヨーゼフの名曲である。よく探せば、私の持っているディスクではアーノンクールが2003年にニューイヤーコンサートで取り上げている。

休憩を挟んで演奏されたマーラーの交響曲第4番は、これ以上のものは望めないのではないかというほど素晴らしかった。ヤルヴィとN響は、ことあるごとにマーラーを取り上げてきたが、私も第1番の名演を忘れることが出来ない。今回の第4番は、それ以上に深い印象を残した。よく言われるように、この曲はマーラーの交響曲の中では小規模で、比較的目立たない存在である。だが、これまでに何度も聞いてきた演奏は一体何だったのだろうか(その中には、コリン・デイヴィスによるニューヨーク・フィルの演奏も含まれる)。

とりわけ指揮者が重点を置き、また表現上も相当意味深いものだったのが第3楽章である。「安らぎに満ちて」と指定されたこの静かな音楽を、私はこれまで何と美しいムード音楽なのだろうと思ってきた(小澤征爾指揮ボストン響のCDなどそういう感じだ)が、それ以上の深いものだったことが分かったような気がした。向かって左下から眺める指揮を見ていても、その表現へのこだわりがわかる。第2ヴァイオリンやヴィオラ、あるいはチェロのパートに対し、旋律を際立たせて丁寧に、かつ集中力を絶やさず振るタクトに揺れ、音楽が木管の愛称を帯びたメロディーに溶け合う様は鳥肌が立つほどに美しい。

実に様々な表情を見せる長い曲だと思った。だがその時間は永遠に続いてほしいとも思った。マーラーの交響曲は、その長い演奏時間の間に、聴衆をどこか遠い世界への旅に連れて行ってくれることである。私は初めて、第4交響曲でもそのようなことがあるのだと思った。この第3楽章の持つ微妙な変化について、実際にはあまり語られていない。終わりころになって、突如大きな音が鳴り響き、何か重大な変化でも来るのかと思うと(このようなことはよくあるが)、薄いピンクのドレスを着た女性が舞台袖から登場した。

何と見事な演出か知れないが、このまま緊張感を持続して第4楽章に続くのだろう。ドイツの若いソプラノ歌手、アンナ・ルチア・リヒターが、ヤルヴィのタクトをゆっくり下ろすと、その歌声の何と素晴らしいこと!「完全に死に絶え」たあとの「天上の生活」は、鈴の音色にかき乱されることを繰り返しながら、明るく澄み渡って行く。3階席でどう聞こえたかはわからない。舞台を見ると第1ヴァイオリンのスコアがもう最終ページに差し掛かっている。ここから先はチェロや第2ヴァイオリンが担うのだ。陰影に満ちた第4楽章は、消え入るように去って行った。この美しい静寂の時間を、3000人余りの聴衆は、身動きひとつせず、物音ひとつ立てず、静かに「聴いて」いた。その時間を私は目を瞑っていたからよくわからないが、最低30秒はあったと思う。信じられない瞬間が、永遠に続くかのようだった。

やがて拍手が沸き起こり、何度もカーテンコールが進むうちに、熱狂的なものとなっていた。指揮者がソリストを順番に立たせていくと、私の位置からもやっとプレーヤーの顔を窺うことが出来た。 驚いたことに、オーボエもフルートもいつものN響の面々とは違っていた。今度テレビで放映されたら確認してみようと思う。そしてブルーレイディスクに録って、再度見てみたいと思う。ヤルヴィのマーラー・シリーズは、いよいよ中盤にさしかかかった。来年2月には、ブルックナーの弟子でマーラーに少なからぬ影響を与えた夭逝の作曲家、ハンス・ロットの交響曲が演奏される。この曲は、私もCDで聞いて大変気に入っているので、いまから大いに楽しみである。

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