歌劇「外套」が終わると休憩時間があるとばかり思っていたら、何と拍手が消えても舞台が明るくならない。そればかりか、先ほどまでジョルジェッタを演じていた北原瑠美が、そのままの衣装で貨物に腰掛けている。「外套」で荒らされた舞台に散乱するゴミや、ばらまかれた水もそのままで、コンテナも配置は変わらない。ところがそのコンテナは、側面が開いて、内部が洗濯場と修道女の部屋になっている。
修道院といえば聞こえはいいが、この雰囲気はどうみても刑務所である。それも女性のみが収監されている女子刑務所である。ここで過去に罪を犯したアンジェリカは7年もの間、贖罪の日々を送ってはいるが、実際には結構世俗的でもあって、みな様々な欲望を口にしたりしている。
ある日のこと、アンジェリカの伯母と称する公爵夫人がやってきて、アンジェリカと面会する。夫人は妹の結婚に際し、彼女の遺産をすべて放棄して妹に渡すよう告げる。アンジェリカは過去に、親の望まない子を産み、そういったことがどうやら修道女に入っている理由らしかった。引き離された我が子に7年間も会うことができなかった彼女は、伯母に消息を訪ねる。だが伯母は「2年前に病気で亡くなった」とつれなく告げ去ってゆく。彼女はすべてを失って絶望する。アリア「母もなく」は唯一といっていいほどのこのオペラの聞きどころだが、確かに胸にぐっとくるものがある。最後の望みまで絶たれたアンジェリカは、とうとう最後の罪を犯す決意を固める。自殺を図ろうとするのだ。
ところが、生死の間を彷徨う時、奇跡が起こる。天使に召された彼女は、天国の門の前で息子と再会し、心安らかに息を引き取るのだ。そして何と面白いことに今回の演出では、死んだはずだった7歳の息子が、生きていたという設定になっていて、舞台に現れたのだ!死んだ、というのは公爵夫人の嘘だった、というのである。驚く聴衆は、みな救われたような嬉しい気持ちになったに違いない。ブックレットでミキエレットが述べているように、聴衆はみな「罪人の味方」なのである。
このオペラは女性のみが登場するという変わったオペラである。「外套」で描かれたヴェリズモとは違い、修道院とそこに起こる奇跡という、いわば古典的なオペラのような題材を用いながら、音楽は近代的な印象がある。未完に終わった「トゥーランドット」を除けば、これは最後の完成されたプッチーニの作品だが、「トゥーランドット」よりも現代的な音楽だと思う。それは次の作品「ジャンニ・スキッキ」で顕著である。
なお、標題役の北原瑠美の他に、公爵夫人は中島郁子(メゾ・ソプラノ)が歌った。(この舞台では)子供が死んだなどと嘘をつくような冷徹な役だが、そういう憎らしさには少し乏しいと思った。続けて上演された2つのオペラが終わり、30分の休憩となった。だがここでもカーテンコールはほとんどなく、この公演では3つの作品を一体のものとして上演することにこだわっているのだと思った。
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