2020年4月19日日曜日

ベルリオーズ:幻想交響曲作品14(レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

確か中学二年生の頃、私はいつものようにラジオを聞きながら学校の宿題をこなしていた。夜の8時頃になるとNHK-FMでは毎夜、クラシック音楽の番組が流れていて、その日は幻想交響曲の録音を流していたのだろうと思う。今ではクラシック音楽の番組は無残にも減少し、私の心も離れてしまって久しいが、当時は海外の演奏会の録音を楽しみして聞いていた。

誰の公演だったかは記憶がないが、演奏が終わってからの隙間の時間に、音楽評論家が幻想交響曲の第2楽章を聞き比べてみるという企画を行った。趣きの異なる複数の演奏が順に流れた。そしてどの演奏だったかはわからないが、私はそれまで味わったことのない気持ちを経験したのだ。背筋がぞくぞくするというのは、こういうことを言うのだろうと思った。まるで雷に打たれたように、電流が全身を駆け抜けた。意識が朦朧とした中で繰り広げられる舞踏会のメロディーは、私をくぎ付けにした。

この時の演奏の一つは、シャルル・ミュンシュによるものだったと勝手に決めつけている。なぜなら「幻想」と言えばミュンシュ、ミュンシュと言えば「幻想」と言うくらいにこの曲は、ミュンシュの演奏を避けて通れないからだ。ミュンシュの「幻想」のLPレコードは我が家にも合った。首吊りの縄の写真が「LIVING STEREO」の文字とともに入ったジャケットを記憶しているから、これはボストン交響楽団との演奏(古い方)だったのではないかと思う。けれども私はこのレコードを真剣に聞いたことはない。あまりに何度も聞かれた後で、盤はすり減り、針が飛ぶような事態になっていたからだ。こういう運命的な出会いとなったベルリオーズの「幻想交響曲」だったが、通して聞くことはなかった。

その私がこの曲に圧倒的な感銘を受けた演奏が3つある。ひとつはここで取り上げるバーンスタインの旧盤。もう一つはコリン・デイヴィスがコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して録音した歴史的名演奏、それに実演で聞いた若杉弘指揮東京都響のものである。実演を含め、他の演奏にも接してはいるが、この3つの体験のほかは印象が薄い。この中には小澤征爾指揮ボストン響やカンブルラン指揮読響(いずれも実演)やビーチャム盤のCDなども含まれる。一定の条件がそろった時、この曲は大化けして圧倒的な感銘を与える。

このような私の経験が示すように、ベルリオーズの音楽、とりわけ「幻想交響曲」にはそのテーマ同様の麻薬のような潜在的効果がある。けれども私は当初、ベルリオーズの音楽に少なからぬ戸惑いを感じていたのも事実だ。それはどういうことか。

「幻想交響曲」はベートーヴェンの死からたった3年後に、若干26歳のベルリオーズが作曲した作品である。原題には「ある芸術家の生涯の出来事」とあり、自らの失恋経験を元にしている。そして各楽章には逐一ストーリーが付けられていて、いわゆる「標題音楽」としての革新的作品とされ、ベートーヴェンからロマン派への流れを一足飛びに飛躍させた感がある。私の戸惑いは、ベートーヴェンまでの音楽が持つある種形而上的な芸術性から離れて、私小説風の世界へと作品の動機が変わってしまったことにあるのだろうと思う。

モーツァルトはベートーヴェンの音楽を聞いても、そのころにどういう体験をしていたか、といった個人情報は研究家の助けを借りなければわからない。なるほどだからこの頃の音楽は哀しみに溢れているだ、などと「理解」するのである。けれども「幻想交響曲」は作曲者の体験そのものを音楽にしている。そこに芸術的な動機は隠れている。フランス人にしてこのような模索が可能だったのか、あるいは時代の流れなのか。そして若い頃に聞く「幻想交響曲」は、自分自身の経験をも投影して聞く者の個人的な情感をも試す。

このような呪縛から逃れる必要があった。我が国ではミュンシュの指揮するパリ管弦楽団の演奏が名高いが、私はより客観的で醒めたアプローチが好きである。それはベルリオーズのスペシャリスト、コリン・デイヴィスの演奏である。カラヤンもいい。そしてバーンスタインもまた、その流れに属するような気がする。ただ若い頃のバーンスタインの演奏には若々しいエネルギーがみなぎっていて、ストレートに曲の魅力が伝わって来る。

少し長くなるが、ここに作曲者自身が書いたプログラムをWikipediaから抜粋しておこうと思う。ベルリオーズはこのプログラムを必ず掲載するように求めている。

病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みによる絶望の発作からアヘンによる服毒自殺を図る。麻酔薬の量は、死に至らしめるには足りず、彼は重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見、その中で感覚、感情、記憶が、彼の病んだ脳の中に観念となって、そして音楽的な映像となって現われる。愛する人その人が、一つの旋律となって、そしてあたかも固定観念のように現われ、そこかしこに見出され、聞えてくる。
第1楽章「夢、情熱」
 彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、そして、彼が愛する彼女を見る。そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。

第2楽章「舞踏会」
 とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う。

第3楽章「野の風景」
 ある夏の夕べ、田園地帯で、彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」を吹き交わしているのを聞く。牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。もう1人は、もはや答えない。日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……。

第4楽章「断頭台への行進」
 彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる。

第5楽章「魔女の夜宴の夢」
 彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声…… 彼女が悪魔の大饗宴に加わる…… 弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。サバトのロンド。サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに。 

ベルリオーズはフランス人らしく、自尊心に溢れ、自己顕示欲が強かったことがよくわかる。若い頃は「幻想交響曲」しか聞いたことがなかったが、今では他の作品も良く知られており、私も耳にする機会が増えた。

「幻想交響曲」の中での聞き所は沢山あるが、私はとりわけ第3楽章を好む。ここでコール・アングレの美しい響きは特筆すべきものである。 直線的で激情的な演奏を好む若い頃は、この第3楽章をつまらない部分だと思っていた。だがある時をきっかけに、この部分が非常に美しいと思えるようになった。ベルリオーズの音楽の不思議さは、このような相反するような性向の奇妙な同居だろう。「サイケデリック」(とバーンスタインは言った)な音楽の前後で、メロディーは時に非常に美しい。

ハープや太鼓、それに鐘の音などが入り混じり、興奮の中をコーダに向かって進む後半の楽章は、続けて演奏される。どんな演奏家でも、ここを集中力を持って演奏されると、聞いているだけで圧倒的な感銘に見舞われる。プログラムに「幻想」と載っていたら、チケットを買いたくなる。

なお私が持っているバーンスタインによるニューヨーク・フィルの1963年の演奏のCDには、 「Berlioz Takes A Trip」と題された解説が付けられている。バーンスタインが残した一連のニューヨーク時代の録音の中では、ショスタコーヴィチの交響曲第5番やコープランドの録音と並んで、特に素晴らしい演奏のひとつだろうと思う。


(追記)
バーンスタインは1963年の演奏に不満を抱いており、1968年に同じニューヨーク・フィルと再録音している。しかしSONYよりリリースされているのは1963年の録音で、1968年は入手が困難なようだ。この二つと、後年フランス国立管弦楽団を指揮して録音した3種類の演奏を見分けるのは、第3楽章の長さを深くすることだ、とある人がamazonのコメントに記している。

  1963 = 17:14
  1968 = 15:09
  1976 = 16:32

なお、Royal Edition(ジャケットにチャールズ皇太子の絵が採用されているもの)として発売された録音は1968年と記載されているが、これは1963年のものと誤記されているようだ。私は1968年の演奏も1976年の演奏も聞いていないが、1963年の演奏が十分に素晴らしく、特に第3楽章がゆったりとしているのを大いに好ましいと考えている。

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