2021年11月18日木曜日

思い出のうた(3) 坂本九「明日があるさ」(作詞:青島幸男、作曲:中村八大)

小学校低学年頃、NHKの人形劇「新八犬伝」(1973-1975)を見るのが好きだった。この人形劇は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を元にした奇想天外なストーリーで、私は夜6時になると夕食までの小一時間、「こどもニュース」から始まる子供向け番組(の中で放映された)を毎日見ていた。

人形劇と言えば「ひょっこりひょうたん島」(原作:井上ひさし)だが、私もこの人形劇の歌をよく覚えていて、見た記憶があるようなのだが、どう考えてもそれはかなり幼少の頃で、記憶していること自体が疑わしい。これに対し「新八犬伝」(脚本:石山透)は、そのストーリーも楽しく私がもっとも好きだった番組である。人形劇はその後も続き、「真田十勇士」などは大いに期待したがさほどでもなく、以降、「笛吹童子」、「紅孔雀」、「プリンプリン物語」と続くが「新八犬伝」を上回るワクワク感に及ぶものはなく、そのうち私も人形劇から卒業してしまった。

なぜ「新八犬伝」がそれほど楽しかったか。の理由のひとつは、坂本九の楽しい語りにあったと思う。所詮、小学生の頃である。飽きない演技とコミカルな表現。黒子となった九ちゃんが丸九と書かれた頭巾をかぶって時々登場する。私はまだ漢字を覚えたての頃だったから、あちこちに「仁義礼智忠信孝悌」などと書いては、知らない文字を書けることに優越感を感じていた。

坂本九は1960年代を代表する歌手で、その絶頂期に丁度世間に行きわたり始めたテレビ・メディアの寵児とも言える芸能人だった。「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)は1961年に始まったバラエティ番組「夢で会いましょう」で紹介された途端にヒットし、日本人として全米ヒット・チャートのトップを飾った記録はいまだに破られていない。さらには、「見上げてごらん夜の星を」、「幸せなら手をたたこう」、「明日があるさ」、「涙くんさよなら」などのヒットソングを連発する。

その坂本九が人形劇の語りを担当し、テーマ曲を歌った。「夕やけの空」というのがそれである。そしてこの曲が、挿入歌だった「めぐる糸車」と合わせてドーナツ盤レコードになり、私も大いに欲しかったが叶わなかったのを覚えている(レコード屋に見つけることができなかったのである)。

小学校3年生になって、私は同級生の友だちの家に遊びに行くことが多くなった。アメリカ人と日本人のハーフというのは当時としては非常に珍しいことで、遊びに行くとアメリカ人のお母さんが瓶入りのコカ・コーラを出してくれた。もっとも彼との普段の会話はすべて普通の日本語で、顔つきは白人なのに英語が喋れないことにコンプレックスを抱いていたようである。

そんなことは知らず、小学生二人が放課後の時間をかけてやるあそびが麻雀だった。と言っても小学3年生二人でやるのだから、簡単に役ができる。そんな見よう見まねの域を出ない麻雀遊びを、毎日彼の家の応接間でしていた。その応接間には立派なステレオセットが置かれていて、当然クラシックのレコードも豊富にあったと思うのだが、彼の家で良く聞いていたのが坂本九のベストアルバムだった。坂本九が、「火薬」と書かれた箱の上で煙草をふかしているというジャケットの写真でが面白く、この人はコメディアンだと思っていたくらいだ(このジャケット写真は後年、ベストアルバムがCD化されたときに復活している)。

人形劇の語りだった坂本九の歌を、私と友人は毎日のように聞きながら、麻雀をしていた。随分変わった小学生だった。そのLPに収録されていた曲には、上記のミリオン・セラーの他に「ステキなタイミング」、「悲しき六十才」、「あの娘の名前はなんてんかな」といったギャグのような歌詞を持つ曲も収録されており、私はそれらの歌詞を覚えては友人に自慢していたようだ。独特の歌い方と伸びやかな声で、坂本は高度成長期の元祖アイドル的存在だった

人形劇に語りを担当した1941生まれの坂本九は、この頃まだ30代である。しかし、1970年代に入るとテレビに登場する機会は減っていった。私の世代から見ると、彼はすでに「過去の人」という感じである。同年代で彼の歌を知っている人はほとんどいない。永六輔や中村八大が細々とでも活躍を続けるのと違い、アイドルの賞味期限は短かったのである。だが誰もが予想しなかった事故が起こった。1985年の日航ジャンボ機墜落事故である。坂本九は偶然にもこの便に乗り合わせ犠牲者となった。享年43歳。その時私は大学受験浪人中だったが、ラジオなどで坂本九の歌が数多く流れた。その中には、かつてLPで親しんだ数多くの楽曲が含まれていた。昭和の終わり、丁度バブル景気が始まろうとしていた頃のことだった。

平成の時代になって、テレビのCMなどで坂本九の歌が復活する。私の最も好きな「明日があるさ」がウルフルズ他の歌手によって歌われ、紅白歌合戦でも披露されている(2001年)。「見上げてごらん夜の星を」(作詞:永六輔、作曲:いずみたく)はゆずがカバーし(2006年)、「上を向いて歩こう」は、最も新しいところではSEKAI NO OWARIが歌っている(2016年)。「明日があるさ」が復活したのは、日本経済が長期的低迷に入り込んでいたことによる諦めから来る開き直りである。けれども本来の「明日があるさ」は、日本経済の高度成長期におけるストレートな明るさと自信を感じさせる。我が国の奇跡的復活は、大雑把に言えば60年代から70年代までである。私はこの最後の部分を、少年時代にわずかに感じることができた最後の世代だと思っている。



2021年11月14日日曜日

東京交響楽団第695回定期演奏会(2021年11月13日サントリーホール、指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ)

新型コロナウィルス感染者が減少し、それにともなって少しづつ日常を取り戻しつつあるように見える昨今である。コンサートも通常通り実施されるようになってきており、人数制限も緩和された。もうしばらくは演目にのぼることはないだろうと思われた大規模な曲、特に合唱を伴うような曲は、飛沫感染の恐れを考えると、当然の如く避けたいところだ。だが、いくらなんでも小規模なオーケストラだけの曲というのも淋しい。

そう感じていたところ、東京交響楽団の定期演奏会でオルフの「カルミナ・ブラーナ」が演奏されるという。3人の独唱に加え、混声合唱団と少年合唱団。結構大声で歌う派手な曲だから、是非聞いてみたい。しかも指揮は、前から注目していたポーランド人、クシシュトフ・ウルバンスキである。彼は既に来日し、隔離期間を過ごしているという。だから公演は間違いない。ただ人気があるプログラムだけに、チケットの残りがあるか心配だった。公演は2回あり、13日のサントリーホールと14日のミューザ川崎シンフォニーホール。後者の方がマチネで、残り枚数も少なくなっていた。私が探した時には2階以上の高い位置の席しかなく、むしろ前日のサントリーホールでの公演の方が、良い席が余っているように見えた。

だが、私には直ぐにチケットを買えない事情がある。愛するオリックス・バファローズがクライマックス・シリーズに進出しており、その試合結果次第では、13日の18時、すなわち丁度コンサートの時間帯に次の対戦がある可能性が高かった。ところが10日から始まった対戦は、バファローズがアドバンテージの1勝を含め3連勝。12日の対戦で早くも日本シリーズ進出を決めそうになった。試合は逆転に次ぐ逆転となり、とうとう最終回、代打サヨナラヒットが出てバファローズが勝利を掴んだのである!こうなったら13日夜の予定がなくなり、コンサートに躊躇なく行くことができる。1階席のチケットを買ったのは当日のお昼で、合わせて日本シリーズのチケットも予約した。

すっかり日常を取り戻したかに見えるコンサートだが、出演者の一部変更が生じている。これは来日するはずだった音楽家が、来日できなくなったことによるようだ。同様の問題は各オーケストラでも生じており、N響でもたびたび指揮者の変更がアナウンスされている。またチケットの販売枚数も感染数の変化を見て修正されており、聞く方としてもなかなか大変である。それでも会場前で配布されるチラシの数は、コロナ前の分厚さに戻っている。お客さんも高齢者を中心に、出足好調のようであり、制限付きながらサントリーホールのバーカウンターも営業している(ここでは「山崎」と「響」が飲める)。

変更が生じた出演者の中には、プログラム前半でヴァイオリンを弾くソリストも含まれていた。ウルバンスキの出身国であるポーランドの作曲家、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番の独奏が、弓新というヴァイオリニストに変更されていた。弓新(ゆみ・あらた)は、1992年東京生まれのヴァイオリニストで、若い頃からヨーロッパに在住しているようだ。丸で弦楽器奏者になるべくしてなったような名前に驚くが、プロフィールによれば佐賀県に多い苗字だそうで、そこに尊敬する著名建築家磯崎新氏の名前を付けたようだ。私などは失礼ながら、中国人ではないかと思った次第。

だが、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲のような難曲を、直前に演奏するように言われたことは想像に難くなく、だとすればこれをこなす相当の実力と努力が必要だったと思われた。3つの部分から成るシマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番は、2つの戦争の間に活躍した彼の比較的若い頃の作品で、聞いた印象ではスクリャービンのようでもあり、ナイーブで神秘的な作品だと思った。弓はこの難曲を、最初はとても安全に弾いているように感じられたが、途中からは若々しく、少しづつ実力を発揮し始めたように思う。メリハリの効いた指揮によってオーケストラは好演。カデンツァでは指揮者は指揮台を下りて、ここは聞きどころであると合図した。オーケストラは雄弁な打楽器とピアノ、ハープなども混じり、あまり聞くことのない新しい音が次々と楽しめる作品ではあったが、ではいまどこを弾いているか、などとなるとまだまだ印象が薄いというのが正直なところ。

休憩を挟んでの「カルミナ・ブラーナ」では、通常のP席の位置に混声合唱団がディスタンスを取って着席。その人数は40名程度と少ない。一方、少年合唱団は十名程度が舞台左手の2階席に陣取っていたようだが、私の座っていた1階席左手奥からは一切見えなかった。このためいつ少年合唱団が入って来るのかとやきもきしていた。できれば正面に配置して欲しかった。

冒頭のメロディーが大音量で鳴り響いた時、ちょっと合唱が弱く聞えたが(もしかしたら席のせいかもしれない)、これは最初だけで続く音楽ではオーケストラと合唱が上手く溶け合って、この曲の精緻な面を多分に表現した名演だった。ウルバンスキの指揮は、その長身を生かしたパースペクティブの良さが際立っており、全体の音量と音感を微妙に調整しながら、各パートのどんな細かいタイミングもわずかのずれもないようにキューを出す。その見事さは特筆に値するだろう。私は初めて聞くこの指揮者の人気がわかるような気がした。

「カルミナ・ブラーナ」はもともと陽気な作品で、演奏によっては時代劇かチャンバラ映画の音楽のように感じることもある変わった作品だ。しかしここでのウルバンスキの演奏は、より精密に音色の変化を追求した。勢いに任せてはしゃぐのではなく、純音楽的な側面を際立たせる、いわば玄人向けの演奏だった。

新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊の実力がこれを最大限に支えたのは言うまでもない。第1部冒頭の静かな部分では中世の響きが会場に満たされ、まるで教会にいるよう。そして2人が代役に交代という運命に見舞われたソリスト陣も好演。バリトンの町英和は、最初ちょっと線が細いと思ったが、後半になると声も大きくなり、おどけたように舞台右手から現れて第2部「居酒屋にて」を歌ったテノールの弥勒忠史は、出番は少ないながらも聴衆を惹きつけ、酔った演技も大いに素晴らしく、見とれているうちに舞台右手に消えて行った。

ソプラノを歌ったのは盛田麻央。彼女もまた今回の出演はピンチヒッターだったが、それを補って余りある熱演で持てる実力を示したと思う。そしてオーケストラ。ウルバンスキの見通しの良い指揮に合わせ、特にオーケストラのみが活躍する部分での千変万化するリズムを巧みに表現し、このコンビの成熟した関係を良く表していた。ウルバンスキが東響の首席客演指揮者だったのは、2013年からわずか3年だったようだが、このように定期的に指揮台に現れては名演を繰り広げているようだ。私も遅まきながら、そのファンに加わった次第。

前半のシマノフスキを含め、聞き惚れ得ていたら過ぎて行った、あっという間の二時間。コンサートは20時に終了した。合唱やオーケストラが引き上げても鳴り止まない拍手に応え、マスクをしたウルバンスキが再度登壇すると、会場からはさらに大きな拍手が送られた。

2021年11月13日土曜日

思い出のうた(2)天地真理「虹をわたって」(作詞:山上路夫、作曲:森田公一、編曲:馬飼野俊一)

今から思えば1970年代というのは、歌謡曲の全盛期だった。それまでの演歌歌手やグループ歌手に加えて大勢の若手のアイドルが台頭し、同年代の若者から圧倒的な支持を得ていた。20代になっていた団塊の世代が社会に出て、日本中のあらゆる側面で変化が起こった。圧倒的に人数の多いこの世代は、それだけでマーケティングの対象になる。勃興した大衆消費社会が彼らに迎合し、彼らも自分の時代が来たと思ったに違いない。それは文化的な意味で、戦後生まれの世代が我が国の中心に躍り出ようとする初期段階であった。

1966年(昭和41年)生まれの私は、その70年代を小学生として過ごした。1973年(昭和48年)に大阪郊外のマンモス小学校に入学、その6年後の1979年に卒業した。今でもよく覚えているのは、新しく赴任する小学校の先生が次々と若返り、新しい風を私たちにもたらしたことだ。遠足に持っていく歌集には、新しい歌が数多く登場した。それまでの文部省唱歌や教科書に載るような歌が中心のお仕着せの歌集の他に、先生が別刷りで作成したものだ。その中には流行のフォークソングなどが含まれていた。夜になればキャンプファイアーを囲んで、誰かのギターに合わせこれらを歌う。その歌詞は、それまでの体制から離れて自由になろうとする新しい時代の意志が込められていた。その象徴的な存在は、ジローズが歌った「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修、作曲:杉田二郎)だろう。この曲は大阪万博の年、すなわち1970年に発売された。

私の世代、つまり丙午(ひのえうま)を底とする「くびれ世代」は、その団塊の世代の20年ほど下である。従って、私達の親世代の文化と同時に、それとはずいぶん異なる団塊の世代の文化に大きく影響を受けていると言える。この2つの価値観が、学校や職場で共存・対立し、やがては下の世代が上の世代を駆逐してゆく有り様を、昭和から平成へと連なる過程で観察してきた。もっとも我々の世代は、その上下の世代に比して同年代の人数が圧倒的に少ないから、時流に乗ることもなければ世間の注目を集めることもない、極めて地味で消極的な世代だと思っている。実際、タレントや政治家になって世間の注目を浴びる人の割合は、これらの上下の世代に比べ圧倒的に少ない(1966年「ひのえうま」生まれは特に少ない)。

1970年代に隆盛を誇り、以後は低迷してゆく昭和アイドル文化はまた、団塊の世代が同年代の人を支えた文化ではないかと思う。そしてこれらアイドル系歌謡曲の裏で若者の心を捉えるニューミュージックもまた、彼らの文化である。実はニューミュージック系の文化こそ、若者文化の本流だったと知るのは、私が中高生になってからで1980年代のことである。従って小学生の私は、いわば表側の若者カルチャーたるアイドル歌謡曲に触れることが、生活の中でのごく一般的な出来事だった。そしてそのアイドル歌手の中で、もっとも高度成長期の底抜けの明るさを感じさせるのが、天地真理だと思う。

私が小学生に入った頃、すべてのチャンネルのテレビ局では歌謡曲番組が花盛りで、ヒット曲の歌手が出演する歌番組は、毎夜どこかの放送局がゴールデンタイムに放映し、その合間にはアイドル向け番組が時代劇やプロ野球中継の狭間に差し込まれた。TBSの「真理ちゃんシリーズ」は、そのような番組のシンボルだった。私はその中でも「真理ちゃんとデイト」を良く見ていた記憶がある。アイドルの中でも天地真理ほど、各放送局が競って登場させた歌手はいないだろう。どの時間にテレビをつけても、彼女を見ない時間帯はなかった。その様子は、全盛期の坂本九に匹敵し、それ以降にはもう存在しないと思われる。三人娘の他の歌手、南沙織と小柳ルミ子がこれに及ぶことはなく、郷ひろみや沢田研二のような男性系アイドルも、滅法有名ではあったが、そこまでテレビの寵児とまでは行かない。天地真理こそ1970年代を駆け抜けた満面笑顔の大スターだった。

彼女は「恋は水色」でデビューし、瞬く間にヒット作がこれに続いた。「ひとりじゃないの」「ふたりの日曜日」「恋する夏の日」などである。私はその中でも一番印象に残っているのが「虹をわたって」である。この曲は1972年にリリースされた4枚目のシングルで、3曲連続でオリコン1位を獲得したことでもわかるように、この年の代表的なヒット曲となり、翌年の選抜高校野球大会の入場行進曲に選ばれた。この1973年頃が天地真理の短すぎる絶頂期だったと思う。それ以降にも新しい曲は発売され、コンサートも活況を呈するが「思い出のセレナーデ」以降は翳りが見える。

とにかく天地真理の屈託のない曲と朗らかな歌唱は、高度成長が続く我が国の、楽天的で自信に満ちた喜びを感じる。楽曲の中にはメランコリックな曲も多いが、それがちっとも深刻にはならず、むしろ幸福感を感じるようで、この時代の雰囲気を良く表している。だが、実際にはベトナム戦争がひどくなってゆくこの頃、社会のひずみも増していくのと同様に、彼女自身もまた少々無理をしていたようだ。1974年を最後に紅白の舞台からは遠ざかり、1977年には体調不良で芸能活動を休止。以後、今日に至るまでマスメディアの話題にのぼることはなくなった。昭和アイドル歌謡の絶頂期を駆け抜けた表の顔は、彗星の如く登場し、虹のように消えて行った。

2021年11月7日日曜日

京都市交響楽団・東京公演2021(2021年11月7日サントリーホール、指揮:広上淳一)

まるで魂が乗り移ったような演奏だった。

長年、常任指揮者などを務めた広上淳一が京都市交響楽団を率いるのは、来年2022年3月までとなった。京響の2年ぶりとなる東京でのコンサートは、このコンビとしては今回が最後となる。常任指揮者としての「ファイナルコンサート in 東京」と題されたチラシを見たのは先月の下旬だった。演目はベートーヴェンとマーラーのいずれも交響曲第5番。前者がハ短調、後者は嬰ハ短調。凡そ100年を隔てて作曲されたこの2曲は、それぞれ新しい境地へと踏み出す交響曲であると同時に、モチーフにおいても大きな関連性がある。広上は大胆にもその2曲をプログラムに配し、真っ向から勝負するというチャレンジングなもの。14年に及ぶ関係の有終の美を飾るものとなるかは、勿論当日の出来次第。音楽は決して事前に作り置きしておくことのできないものだからだ。

ベートーヴェンの冒頭で、聞きなれた主題が鳴り響いた時、私はとても新鮮なものを感じたのは不思議ですらあった。配置は昔からの標準的なもので、左からヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順。古楽器奏法が主流の現在、むしろ懐かしい響きである。しかもテンポはゆっくり目。主題提示部の繰り返しは省略。たっぷりと旋律を歌わせ、自らも道化師のように踊る広上の姿に、こちらも釘付けとなるのに時間はかからなかった。このような「古典的な」ベートーヴェンは随分久しぶりに聞くな、などと思いつつ、それがここまで新鮮に響くには何か理由があると考えた。それは広上が、すべてのフレーズ、すべての和音に至るまで、ここはこういう音でなければならないという確信に満ちた音作りを目指しているからではないだろうか。

広上の演奏に接するのは初めてである。最近ではNHK交響楽団にもたびたび客演しているし、東京生まれの指揮者なので勿論のことながら、東京での活躍が多い。にもかかわらず、私はこれまで広上の生演奏に接したことがなかった。それなのに、初めて聞く彼の指揮するオーケストラが、京都のオーケストラであるというのも何か不思議な感じである。第1楽章のオーボエのカデンツァ以外では、オーケストラの自発性に任せているというよりは、細部にまでこだわって指揮をしているように思えた。ただそれが威圧的ではなく、開放的で明るいのは、その滑稽とも思える大袈裟な指揮姿からではないだろうか。

第2楽章もたっぷりと歌わせ、聞きなれた音楽が何故かとても嬉しいくらいに新鮮だ。きっちりと、しかし曖昧さもなく進むが、それについて行くオーケストラの技量も確かなものだと感じた。そして第3楽章の低弦の響き。最近の我が国のオーケストラも、かつてのように薄っぺらい低音ではなくなって、むしろヨーロッパのそれに近い。しかし第3楽章までですでに非常に朗らかな感じがしてしまうため、第4楽章の歓喜はむしろ控えめに感じられた。第4楽章でも主題提示部の繰り返しはない。これはプログラム自体が長いためだろうか。

私はこの曲をこれまでにどのくらいコンサートで聞いているか、過去のメモを手繰ってみた。印象には残っていないものの、結構な回数であることが判明した。今回の第5交響曲の演奏は、その過去の記録に照らしても、これほどまでに印象に残った演奏はないと思った。聴衆が期待しているのはこんな演奏ではないか、と広上は考え、その実践をしているように思われた。だから後半のマーラーに、期待が膨らんだ。ただマーラーの交響曲第5番は、ホルンやトランペットを始めとして、結構な技巧が要求される。京都市交響楽団は、その期待に応えられる技量があるのだろうか、と私は少し心配だったのが正直なところだ。だがこれは杞憂に終わった。

私は広上の指揮に限らず、この地方自治体が運営するオーケストラを聞くのも初めてだった。いや実際には、2回目ということもできる。それは小学生の頃、体育館で聞いた出張演奏会の小さなアンサンブルが、京響だったからだ。今から50年近く前のことである。私の通っていた小学校は、大阪府の北部にあった。私の通っていた小学校の音楽の先生は、音楽室に高額なオーディオ装置や楽器などを配備し、児童には楽器を触らせてばかりいる大変ユニークな方で、この先生がその年に招へいするオーケストラを決める時、「京響が一番真面目でいい」と言っていたのを覚えているのだ。まだ何もわからない小学生の授業の中で、そういうことを言った。それ以来、京響は私にとって、いつかは聞くべきオーケストラとなっていた。けれども当時、一番人気は大フィル。大阪から京都に出かけて行くのも不自由なら、京都に音響のいいホールもなかった。

東京に来てからは、関西のオーケストラを聞く機会もほぼなくなった。しかし2008年に京響の常任指揮者に広上が就いてから、京響の技量は飛躍的に上昇し「黄金時代をもたらした」(プログラム・ノートより)とのことだった。私は初めて聞く広上の指揮する演奏会に、京響を選んだ。そしてそのことが大正解だったことを、マーラーの奇跡的な大名演によって確信するに至る。オーケストラの巧さだけでなく、それを引き出した手品師のような広上の指揮が、これほどにまで聴衆を惹きつけるのかと思った。

マーラーの冒頭はトランペットの響きで始まる。モチーフはベートーヴェンのそれと同じ3連符とフェルマータ。しかし100年後のクラシック音楽は、非常に複雑だ。長いマーラーの演奏は、聞いてゆくと今どこにいるのかもわからないような世界に入ってゆく。交響曲第5番の、比較的構造の明確な曲であってもまたしかりである。第1楽章の重苦しく闘争的な音楽。悲劇的な第2楽章。こういった場面をたっぷりと、体を左右にゆすりながら、時に大きくジャンプしては向きを変え、丸でパントマイムのように軽やかに踊る。オーケストラはその表現に寄り添い、最大限の技量をもってついてゆく。この一糸乱れぬ関係は、長年に亘って築かれたものであることを感じさせ、さらにはかなりの量の練習が施されたのではないかと想像するに十分であった。

奇跡的に、まるで魂が乗り移ったようにオーケストラと指揮が一体化してきたと感じたのは、第3楽章からだった。この長いスケルツォを千変万化するリズムやフレーズの中に表現しきった彼らは、続く有名なアダジエット(第4楽章)で、さらに深化したアンサンブルを響かせた。指揮者の正面に配置されたハープと、100%の音量を鳴らす弦楽器の絡み合い。一音ごとに響きに重みを増すフレーズに合わせ、指揮はこれでもか、これでもかとオーケストラを引き立ててゆく。時に唸り声が響く。その楽章が終わったとき、会場が物音ひとつしない静寂に包まれた。消えてゆく音に合わせ、かすかに目を閉じた私は、終楽章でのホルンの響きに身を寄せ、流れては澱み、大胆に鳴らされては消え入るように染み込むマーラー・マジックに翻弄されることとなった。難しい音楽が次から次へと現れ、重なり、大きくなって会場を満たすときでさえ、広上の確信に満ちた指揮は、驚くべきほど雄弁なものだった。こうなればオーケストラも、乱れることなく心がひとつになって、実力以上の力量が示されることとなる。すべての楽器の、すべての奏者が体を揺らし、思いっきり力を込めて弾く。後方にいる弦楽器奏者までもが、まるで魔法にかかたかのように熱演を繰り広げる。その有様は、聴衆にも乗り移ったかのようだ。

全部で2時間20分以上に及んだコンサートが、さらに長い間、拍手の嵐に包まれた。何度も舞台に呼び出された指揮者は、オーケストラが去っても熱心な聞き手に応えた。「アンコールはありません」などと会場に向け挨拶をした広上は、「京響がとても個性的なオーケストラに成長した」というようなことを云った。私はこれまで、そのあまりに大袈裟でひょうきんな指揮姿に、いったいどういうコンサートをする指揮者なのかとこれまで思ってきたが、今日の演奏を見て明確に判った。両手だけでなく、顔の表情、時に両足までも駆使しながら、体のすべてを通して音楽を伝えようとする姿は、それゆえにオーケストラのあらゆる部分に明確な指示を出す。そのユニークな指揮と演奏が一体になった時、驚くような名演奏が誕生する。本日の演奏は、まさにそのことを実体験することとなったのだった。

このような個性的な指揮が、歳をとるとしづらくなってゆかないか心配である。けれども少なくともあと何回かは、京都でこの組合せの演奏会が予定されている。特に注目すべきは、文字通り最後の演奏会となる来年3月の定期である。この時取り上げられるのは、マーラーの交響曲第3番だそうである。私は帰省を兼ねて、京都まで聞きに行こうかとも思っている。

2021年11月6日土曜日

思い出のうた(1)「帰ってきたウルトラマン」主題歌(作詞:東京一、作曲:すぎやまこういち)

いまどき珍しいことに、私はゲームというのをほとんどしたことがない。昨今のスマホに代表されるネットゲームはおろか、家庭に初めて登場したコンピュータゲームがまだ「テレビゲーム」と呼ばれていた時代から、私はゲームを楽しめないでいる。理由はよくわからないが、人間が作り出した世界よりは、社会や自然の方がより複雑で面白いからだ、と答えることにしている。にもかかわらず私は情報科学、いわばコンピュータ科学を専攻する学生になった。

学生の頃、叔母に会いに行ったときゲーム「ドラゴンクエスト」の音楽が、耳から離れないと言われた。叔母も特にゲームに興じるような人ではない。それなのに、なぜか叔母は私にそう言った。私もなぜか「ドラゴンクエスト」の音楽のさわりを聞いて少し知っていたから、叔母に「この音楽はすぎやまこういちが作曲したのだ」と答えた。

それまでのコンピュータが発する音は、いわゆるビープ音の類、つまり必要があって何かを(だいたい不吉なことが多い)知らせるためのもので、音階で言えばAの音、しかも正弦波である。だがこの頃からコンピュータは、単なる事務機から娯楽の分野へと領域を広げ、アップル社のマッキントッシュなどは、起動時に鳴る和音で利用者をあっと楽しませるような「遊び心」がふんだんに搭載されていた。コンピュータゲームにも音楽が必要だとすぎやまは考えた。そこで耳に心地よい音楽の作曲を思い立ったのである。

叔母は団塊の世代である。彼女は「亜麻色の髪の乙女」や「学生街の喫茶店」のような歌謡曲が、すぎやまの作曲であることを知っており、なるほどそうなんだ、と大いに頷いたのを記憶している。確かにすぎやまの音楽は、いつまでも聞いていたくなるような音楽、たとえばイージー・リスニングなどと呼ばれた一種のポップス・オーケストラによるムード音楽(FM番組「ジェットストリーム」で聞ける音楽である)のようなものとよく似ているだろう。すぎやまが後に編曲し、自らが指揮して演奏した交響組曲などを聞いてみると、そのような感じがよくわかる。人類が音楽を様々な局面で使用するようになってから1世紀。映画やテレビ番組、それにデパートや広告などで使用される音楽の種類が、またひとつ増えた。それがゲーム音楽である。

だが私がここに書こうとしているのは、彼の代表作であるゲーム音楽の類のことではない。私が生まれて初めて聞いた音楽(少なくとも記憶する限りにおいて、自ら意識して聞いた音楽で、その曲名や旋律が明確なもの)は、当時大流行りしていたテレビ番組「ウルトラマン」シリーズの最新作「帰ってきたウルトラマン」の主題歌だった。当時幼稚園児だった私に、祖母が欲しいものを買ってやろうと言ってくれた。私は祖母と阪急北千里駅にあった小さなレコード屋に行き、一枚のドーナツ盤レコードを買って欲しいと言った。確か500円くらいだったと思う。バスの初乗りが30円の時代。1972年頃ではないかと思う。そのレコードに収録されていた「帰ってきたウルトラマン」の主題歌を作曲したのが「すぎやまこういち」だったことを覚えているのは、その名前がひらがなで書かれており、幼稚園児の私でも読めたからであろう。

そのすぎやまこういちが、先日亡くなった。もっとも私は彼の晩年の、特に国家主義的な政治活動に賛同できなかったし、ゲーム音楽に興味もなく、従って彼の作品を良く知っているわけでもない。だがこの「帰ってきたウルトラマン」の主題歌だけは、私の心に残る「最初の音楽」、つまりは音楽体験の原点なのである。そしてその主題歌は、今でも口ずさむことができるほど歌詞もメロディーも頭から離れたことがない。ウルトラマン・シリーズは円谷プロダクションが経営危機に陥った後も延々と続いているようだが、主題歌に関する限り「帰ってきたウルトラマン」を上回る作品はないのではないかと、勝手に思っている。

Wikipediaによると「帰ってきたウルトラマン」は1971年から1972年にかけて夜7時から放映されている。おそらく私は週1回、この放映を欠かさず見ていたであろう。またそれ以前のウルトラマン作品は、毎日夕方5時台に再放送されており、私は友人たちとそれを見るのが日課だった。このことからもわかるように、私は「ウルトラマン世代」の最後の部類に入ると思っている。それ以降のアニメや特撮ものは、私の世代から少し外れている。仮面ライダーしかり、マジンガーゼットしかり。そういうわけで、私の幼少期の音楽を代表するのは、すぎやまこういちの作曲した「帰ってきたウルトラマン」の主題歌なのである。

すぎやまこういちの訃報に接してから、急に数多くの追悼ビデオが流され、そのほとんどが「ドラゴンクエスト」である。関係の深かった都響は、10月の定期演奏会の冒頭で大野和士が「ドラゴンクエストⅡ」から「レクイエム」を演奏したようだが、「帰ってきたウルトラマン」の主題歌については、ほとんどどこにも掲載されていないようだ。かねてから私は、自分の幼少期からの音楽体験(つまりは好きな流行歌)のいくつかについてこのブログに書いてみたいと思っていたから、丁度いい機会が訪れたと思い、とうとうこの文章を書くことに決めた。

「帰ってきたウルトラマン」の主題歌は、東京一(あずま・きょういち)という名前の円谷プロダクションの社長が作詞し、主人公を演じた団次郎(だん・じろう)とみすず児童合唱団が歌っている。「ウルトラマン」全盛期を思わせ、高度成長まっしぐらの明るい音楽である。私の通っていたカトリック系幼稚園でも「ウルトラマンごっこ」が流行しており、男の子ならだれもが「スペシウム光線」などの技を知っており、3分経つとエネルギーが急速に失われるシーンを真似ることができた。

「ウルトラマン」の時代、一家に一台だったテレビは家族全員で見るものだった。同じ勧善懲悪ものでも「ウルトラマン」の前と後では、その意味内容が完全に変わってしまったと主張するのは社会学者の宮台真司である。「ウルトラマン」のストーリーには簡単には理解しにくいテーマを含んでいる。例えば怪獣(悪者)にも一抹の善意があって、ウルトラマンもそれを認めようとする立場があったりするのである。それを大人がお茶の間で、子どもに解いて聞かせることを前提にしていたからだ、と彼は言う。しかしそれ以降の時代になると、テレビは家族全員で見るものではなくなってゆく。自然、ストーリーは単純化され、誰が見てもわかる価値観を提示しないといけなくなるのだ。善は善、悪は悪と。この転換期に始まる日本社会の衰退は、いわば高度成長の絶頂期を境とした「坂の上」からのなだらかな下り坂になって今日まで続いている。

2021年11月3日水曜日

東京都交響楽団第393回プロムナードコンサート(2021年10月30日サントリーホール、指揮:小泉和裕)

1982年に大阪のザ・シンフォニーホールが我が国初のクラシック音楽専用ホールとして開館した時、全国各地のオーケストラが招待され、連日オープニングコンサートが開催された。最初は朝比奈隆の大フィルで、トリがNHK交響楽団だった。このコンサートは後日朝日放送でオンエアされ、コンサートホールの違いが各オーケストラの響きをどう変えるのか、私も大いに注目して見た記憶がある。

その中に記憶が正しいか自信がないのだが、小泉和裕が指揮する京都市交響楽団というのがあった。曲目も忘れてしまったが、アンコールに演奏されたブラームスのハンガリー舞曲第1番だけは鮮明に覚えていて、世界各国のオーケストラと華々しく共演を続ける若干33歳の若手指揮者の才能を見たような気がした。

あれから私は小泉和裕のコンサートをいつか生で聞いてみたいと思いつつ、なんとこれまで一度も接したことがなかったのである。この間40年の歳月が流れている。中学生だった私は55歳になり、俊英の指揮者も70代に達した。小泉はこの間、いくつもの国内のオーケストラを指揮しているから、何度もチャンスはあったのである。だが私は何故か、小泉の演奏会に行くことはなかった。20代前半でカラヤンコンクールに優勝した指揮者は、その後の演奏を国内に限定してしまったにもかかわらず。

予期せぬ感染症が全世界を多い、すでに1年半が経過した。ここへきてようやく日常を取り戻しつつあるが、この世界的パンデミックはクラシック音楽界にも激震をもたらした。海外からの演奏家が来日できない状態が続いたのだった。しかし我が国には世界を股にかける演奏が大勢いる。今年のショパン・コンクールもその例にもれず、日本人の活躍が目立ったのは言うまでもない。

そんな中で目にした都響のプロムナードコンサートと題するわずか一夜だけのポピュラーコンサートに、私は目を惹かれた。ドヴォルジャークのチェロ協奏曲と交響曲第8番という取り合わせ。メールで送られてくる当日券情報にも、まだ席が数多く残っていることが記されていた。

通常、日本人指揮者を迎えて演奏される有名曲ばかりのコンサートに、あまり行く気がしない。オーケストラも小遣い稼ぎ程度としか思っていない可能性がある。エキストラを数多く配して、にわか作りの感が否めないようなものも多かった。しかし、今回は違った。

まずチェロ独奏は、目下最も期待される日本人演奏家である佐藤春真という若者である。ブックレットに記載されたプロフィールによると、2019年ミュンヘン国際音楽コンクールに優勝したとある。この時若干22歳。ということはまだ24歳ということになる。少し詳しく検索して見ると、名古屋生まれでベルリン在住。ドイツ・グラモフォンよりデビューアルバムも発売されている。私はさっそくSpotifyでアクセス。若々しいブラームスのソナタが聞けた。

実際に舞台左手横真から聞いた独奏チェロは、木管楽器ととても上手く響き合う。正面を向くチェリストを見ながら、オーケストラに指示を与えるのは指揮者である。指揮者を介した木管と独奏のアンサンブルの妙は、CDなんかではなかなか聞けない醍醐味であることを知る。こんな有名曲でも私のコンサート記録には、過去にたった一度しかない。舞台正面の席であれば、もう少しオーケストラの音が一体化されているのだろう。だがこの場合には逆に、管楽器が見えにくい。左横からは音を少し犠牲にしている反面、指揮者と独奏者、それにオーケストラのソリストの呼吸が大変良くわかる。

それにしてもドヴォルジャークのこの曲ほど、琴線に触れる曲はないと思う。おそらくカザルスやフルニエの歴史的名演、それに続く万感のロストロポーヴィチの名演などにCDで接してきた聴衆は、その時に聞いた音を重ね合わせているに違いない。そのしびれるようなカンタービレ。もう一体何度聞いたかわからないほど馴染んだ曲なのだが、それでもああここはこういう風にフルートが、オーボエが、クラリネットが重なっているのか、という発見の連続だった。

佐藤春真のチェロが技術的に巧いのは言うまでもないのだが、それが小泉の指揮にピッタリ寄り添って、オーケストラとの交差が見事である。完全にオーケストラに溶け込みつつも、ソロの巧さを表現している。オーケストラの中に入った独奏という感じ。これは相当練習し、かつ指揮が上手いからに違いない。

佐藤春真のことをTwitterなどで見るていと、その辺りを歩いている普通のいまどきの学生と変わらない表情で、私の会社にもいる感じである。ごく普通の感覚でありながら、聞かせどころにうまく歩調を合わせ、親しみやすいドヴォルジャークの旋律をフレッシュに聞かせてくれた。

後半のプログラムは交響曲第8番だった。舞台に上がったマエストロが指揮棒を自然に振り下ろすと、オーケストラが一斉に鳴り響いた。前半の独奏者に遠慮した硬い感じからは解放され、オーケストラの醍醐味が満喫できた。特に中低音が活躍するドヴォルジャークのメロディーは、チェロとコントラバスの人数が多い今日の編成では特に重要である。そしてチェロ協奏曲を含め、オーケストラが音を外すことなどなく、すべての楽器が素晴らしかった。第1楽章のフルートや、第2楽章でのオーボエとヴァイオリンのソロ、第4楽章冒頭のトランペットに至るまで、それは完璧だった。

第3楽章のスラブ舞曲風メロディーや、第4楽章のハンガリー風ダンスも興に乗った演奏で会場の聴衆は大いに沸き立った、と書きたいところだが、コロナ禍で「ブラボー」は禁止され、この日のコンサートには空席が目立ったことは残念である。ところが、驚くべきことにオーケストラがすべて退散した後にも拍手が鳴りやまないという、珍しいことが起きたのである。来日した老齢のマエストロならわかるのだが、通常の都響のコンサートでこの光景は特筆に値するだろう。熱心な観客は、この演奏の素晴らしさを長い拍手で表現したのである。

思えば小泉はカラヤンの弟子の一人で、アシスタントも務めていたのだろう。その指揮はやはりカラヤンのようにスタイリッシュで、流れるような旋律も颯爽と乱すことはなく、そして多くの楽器で旋律を始める時に、もたつかず自然に、しかもすっと入るあたりの職人的な感覚は、見ていて惚れ載れする。こういうところは目立たないが、なかなかのものである。一緒にコンサートを聞いた妻も、一気に小泉の演奏に引き込まれたようだ。私も毎年何度か開催される彼の名曲コンサートに通ってみたいと思う。

土曜日の昼下がり。ようやく秋めいてきた快晴の赤坂を歩く。今宵は神谷町のイタリアン・レストランで妻の転職・昇進祝いをする予定である。まだ少し時間があるので、新しくなったホテル・オークラのカフェにて1時間余りの時間を過ごす。贅沢な秋の一日は、素敵なトスカーナのワインと、北イタリアの郷土料理に舌鼓を打って帰宅。彼女は明日から北海道の実家に出かけ、妹と母親、それに私の母も参加して沖縄旅行をする予定である。その準備に取りかかりなら、久しぶりに聞いたドヴォルジャークの旋律が心地よい週末の夜だった。

※ご本人のTwitterに当日のコンサートの写真が掲載されていたので、転載させていただきました。

謹賀新年

  2026年の年頭に当たり、新年のご挨拶を申し上げます。 ますます混迷する世界情勢において、いまだ戦争がなくならず、生活格差が拡大するなど、憂慮すべき事態が絶えません。暮らしにくくなる日常で、少しでも平和で落ち着いた方向に向かうことを祈念しながら、今年も音楽に耳を傾けたいと思っ...