2023年3月13日月曜日

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47(Vn:ヴィクトリア・ムローヴァ、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

ニューヨークにはかつて、2つのクラシック音楽専門FM局が存在していた。1つはWNCNで確か104.7MHz。民間放送でCMも入れば、ニュースや天気予報もある。そのような時でも背後に流れるのは、バロックやバレエ音楽だった。だからどの時間にチューニングしても、何らかのクラシック音楽が聞こえる。毎正時からはシンフォニーのような長い曲がかかり、そのあとはピアノ曲やちょっとした歌が挟まれる。この選曲が実に見事で、いつどんな曲がかかるかは雑誌が定期的に郵送されてくるから、予め聞きたい曲をチェックしたり、あとから演奏家を調べることもできる。もちろんまだインターネットがない80年代のことだった。

このFM局は、私が2回目にニューヨークを訪れたときにはハード・ロック専門局に変貌しており、クラシック音楽専門のFM局はもう一つのWQXRのみとなっていた。WQXRはニューヨーク・タイムズの放送局で、やはり一日中何らかのクラシック番組が放送されている(今ならインターネットで聞ける)。番組によってはちょっとしたナレーションも入るし、ニュースもある。そして土曜日の午後にはお待ちかねのMETライブが放送される。このオペラハウスからの生中継は、今のMet Live in HDシリーズのさきがけでもあったが、熱心なファンも多く、子供の時代はこれを聞いていた、などとインタビューに答える歌手も結構いる。

ラジオは手軽で人気のあるメディアで、世界中の都市にクラシック専門ラジオ局が存在するにもかかわらず、わが国にはクラシックはおろか、J-POPであれロックであれ、専門的な放送局は存在しない。このため、ある気分に浸りたいと思っても、そこにFM放送が選択肢にない。ところが、ラジオの魅力は同時性の感触だと思っているから、ごくわずかなナレーションでもいい、「いま雪がちらついてきました」などとやってほしいと思っている。有線放送や音源配信サイトにはこれがないのである。日本のFM局は、洋楽専門局などを目指した放送局もいっとき存在したが、いつのまにかつまらないトークばかりの番組になってしまった。これでは聞きたい放送など存在しない(だから時差があってもインターネット放送を聞くしかない。まあそれができるようになったのは革新的なことだが)。

前置きが長くなったが、そのような海外のFM放送が珍しかった時代、私はニューヨークで聞いていたWQXRのナレーション入りの放送を適当にカセット・テープに録音して、帰国してからもニューヨーク気分に浸ろうと考えた。そしてある時、ラジカセで番組を録音したものを東京に帰って聞いていたら、その中にシベリウスのヴァイオリン協奏曲が含まれていたのである。その演奏は、1991年に録音されたギル・シャハムによるものだった。この演奏は私をいっときくぎ付けにしたほど魅力的な演奏でだった。伴奏はジョゼッペ・シノーポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団。この伴奏がまだ素晴らしく、とても快活でヴァイオリンの即興性にもうまく合わせて、ちょっとした興奮状態が連続する。私は長年、この演奏こそが自分にとっての第1だと考えていた。

ところが今回、このブログを書くにあたり、それまでの私の愛聴盤だったヴィクトリア・ムローヴァの演奏にも久しぶりに耳を傾けてみた。この演奏は小澤征爾が指揮するボストン交響楽団との共演で、フィリップスから発売された当時、比較的早い時期に自分のコレクションに加えた。とても録音がいいさわやかな演奏で、ボストン響のエレガントな響きも魅力的だが、何といってもまだデビューした直後のムローヴァの、ちょっと真面目で控えめな演奏に好感が持てた。まるで教科書のような、目立たない演奏だと評価することも可能だが、私はアジア人として、ちょっとこの曲にはどこか繊細で遠慮がちなものを期待する方だから、某評論家がチョン・キョンファの演奏を絶賛するように、まだ若かったムローヴァが生真面目な小澤と組んだ一枚が大いに気に入っていた。

なお、シベリウスの音楽にアジア的な要素を期待することを見当違いだと批判する人もいるかも知れない。そもそも音楽をどう聞こうと勝手であり、趣味の領域を出ない以上、放っておいてくれ、ということになるのだが、フォンランドという国は北欧にあって、ヨーロッパというよりはアジアとの関連を強く持つ国だということは指摘しておきたい。かつてフィンランド航空は、わが国からもっとも近いヨーロッパがフィンランドであると広告を打っていたし、言語学的にはフィンランド語はアジア系の言葉に近いとされている(だからと言って、フィンランドがアジア系の国だとするのは間違っている)。

そのムローヴァも、最近では若いことの演奏とは違って、随分テンポを揺らした特徴的な演奏をするように変化した。私は何年か前に、彼女の演奏するベートーヴェンを聞いたが、かつての若い頃の(「退屈な」と彼女は言った)演奏とは異なり、溜をうったり、音符を吹きのばしたり、強弱を強調する。ここでは、そのように変貌を遂げる前の、清楚で穏やかなイメージの彼女の演奏が聞ける。11月の寒いある日の夕方、私は居間でこの演奏を聞いていた。そばには同居していた祖母がいて、彼女はおおよそクラシック音楽など聴かないのだが、どういうわけかこの演奏の直後に、「なかなかいい曲やね」と言った。これには意外だった。クラシック音楽を聴いたのは、これが最初で最後ではないか。そんな祖母を惹きつけた何かが、この録音には存在するのである。

さて、シベリウス唯一のコンチェルトであるヴァイオリン協奏曲は、1903年から1905年にかけて作曲された。これは交響曲でいえば、丁度第2番と第3番の間にあたる。ヴァイオリン協奏曲の系譜としては、何といってもベートーヴェンを先頭に、ブラームスやチャイコフスキーなどの名曲が数多く存在しているが、一般に有名曲とされているヴァイオリン協奏曲の中では、もっとも新しいものである。20世紀に入ってから登場したシベリウスのヴァイオリン協奏曲には、膨大な数の録音が存在している。それだけ演奏家にとってもリスナーにとっても魅力的な作品ということになるが、それはメロディーの親しみやすさに加え、ヴァイオリンの魅力を堪能できる自由な形式と、それを目立たなく支えるオーケストラとの見事な融合にあるのではないかと思う(まあ他のヴァイオリン協奏曲はみなそうなのだが、それまでの数多くの名曲の後でも、まだこのような曲が存在するのか、という驚きは確かにあるのだ)。

第1楽章ではいきなりカデンツァではないか、と思わせるような技巧的パッセージが続く印象が強い。ただ、これは私だけの個人的な印象かもしれないのだが、演奏によって曲の聞こえ方が違う。これはヴァイオリン協奏曲に限らず、シベリウスの曲全般に言えることかも知れないが、演奏のヴァリエーションが多彩という印象が強いのは、そのような表現上の自由さを曲自体が持っているからだとも言える。取り上げた2つの演奏でも、シャハムの高カロリーな演奏(昔は多かったヴァイオリンが前面に強調された録音)で聞くのと、飾り気の少ないムローヴァの演奏で聞くのとでは、随分異なるように思う。そして私は、ムローヴァの方が、この曲のヴァイオリンの魅力がより感じ取れるような気がしていて、今ではこちらの方が気に入っている。

時折前面に出てくるオーケストラは、ボストン響の木管楽器の木目調の響きと、小澤のリズム感が魅力である。第2楽章の途中から、そのオーケストラのドラマチックな部分を経てヴァイオリンの音色が変わる。まるで人にささやきかけるような静かで繊細なメロディー。その時に2つの弦を同時に弾く奏法が使われている。第3楽章に入っても、親しみやすいメロディーの中に、フラジオレットのような超絶技巧が埋め込まれている。これを小澤もムローヴァも、さらりと通り過ぎてゆく。ついでながら、シャハムの演奏はシノーポリの伴奏とともに健康的で明るく、まるでヘブライのダンスを聞くようなところがあるが、そのあたりの違和感が今はちょっと耳障りである。やはりこの曲は「極寒の澄み切った青空」とその心象風景を表現してほしい。

なお、このディスクは他の多くのものと同様、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を併録している。こちらの方は、もっと録音数も多く、従って名演奏も数限りない。悪い演奏ではないが、何もムローヴァ・小澤でなくてもいいのである。そういうわけでディスクとしての魅力は、もっぱらシベリウスに依存する形であり、そういう点でちょっと目立たず、損をしている点を指摘しておかなくてはならない。

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