2023年3月29日水曜日

東京都交響楽団演奏会(都響スペシャル)(2023年3月28日サントリーホール、大野和士指揮)

ハンガリー系ユダヤ人作曲家リゲティは1923年生まれで、今年生誕100周年。そのことを記念して都響は今シーズンの最後の定期演奏会に「リゲティの秘密」と称する意欲的なプログラムを組んだ。私はそのことをわが家に届いたダイレクトメール(葉書)で知ったが、今月はすでに5回ものコンサートに出かけており、特に都響は2回に及ぶ。だからこれはパス、と決めていたのだが気になって仕方がない。どうやら前評判も上々のようで、同じプログラムが2回。いずれもサントリーホールで開催されるというのも珍しく、オーケストラはかなり自信があるのだと思われる。そこで2日目にあたる3月28日、仕事を早々に片づけてまたもや赤坂アークヒルズへと急ぐ。スペイン坂の桜が満開を迎え、ライトアップされて見事に咲き誇っている。

プログラムは4つの曲から構成されている。まず前半は「虹」という作品の本邦初演。「ピアノのための練習曲集(第1巻)」からの1曲だそうで、アブラハムセンという人がオーケストラ用に編曲した。「虹」はわずか4分ほどの短い曲で、原曲は1985年の作品。現代音楽を聞く時の関心事のひとつは、舞台上の楽器配置である。そして驚くのは弦楽器の少なさ。これに比べ、管楽器や打楽器が舞台の後方にずらりと並ぶ。解説書によれば、この作品では「ポリリズム」と呼ばれる複数の拍子のリズムが同時に(ピアノなら右手と左手)弾かれるという複雑なもので、それが編曲により各楽器に割り振られ、ばらばらの拍の音楽が絡み合うというものだそうだ。「虹」というタイトルが後からつけられただけで、「虹」を音楽で表現したものではないとのことだが、ポリリズムを各楽器に分解したために、音楽が極めてカラフルなものとなった。それを「虹」と表現したのだろう。

このたびの私の座席は、舞台を向かって左手間横から見下ろるLDと呼ばれるA席の最上列で、後に席がないため身を乗り出して見ることができる。この位置からのオーケストラの音は、思った以上に良かった。サントリーホールでは1階席よりも2階席の方がいい音に聞こえるような気がする。会場には比較的若い人が目立ったのも今回の演奏会の特徴だ。学生が半額になるというのも魅力的だが、新しい音楽にこそ人気があるというのも嬉しい。もしかすると音楽を学んでいる学生なのかも知れない。私の隣の席もカラフルな衣装の学生だったし、前の男性はオペラグラス片手に舞台に見入っている。

舞台上には様々な楽器が並んでいた。次の曲「ヴァイオリン協奏曲」は1990年の作品で、独奏はソビエト(モルダヴィア)生まれのパトリシア・コパチンスカヤ。こういった曲は彼女の独断場だが私はもしろん初めて聞く。面白いのは弦楽器の少なさで、ヴァイオリンは第2を合わせても4人、他は各2人、コントラバスはたった一人。それに対し木管はほぼ2人ずつに加え、リコーダーやオカリナと呼ばれる子供用の笛までもが登場する。また鍵盤楽器が舞台右に陣取り、マリンバ、シロフォン、鉄琴、ビブラフォンといった学校の音楽室にあった楽器がずらり。打楽器の種類に至ってはここに書ききれないほどである。

コパチンスカヤが舞台に登場し、チューニングを始めたと思ったらそれが音楽の始まりだった。音楽とも雑音とも区別のつかないようなギリギリの旋律を、弦楽器と独奏ヴァイオリンが一見無茶苦茶に演奏しているのではないか、と目を疑ったが、これは「変則調弦(スコルダトゥーラ)」と呼ばれる手法を用いて本来の音とは異なる音が出るように操作されているとのことである。Wikipediaで「スコルダトゥーラ」と検索すると、その手法が用いられている主な曲が紹介されていて興味深い。

リゲティの刺激的なヴァイオリン協奏曲は全部で5つの楽章から成り、各楽章には特徴があって面白い。第2楽章には「ホケトゥス」などと書かれているが、これは中世の作曲家マショーの作品に登場する「しゃっくり」のような音楽である。一方、目まいや動悸にも似た生理現象を過激に強調したような部分も少なくない。この結果、ヴァイオリンが有り得ない速度のトレモロで急上昇や急降下を繰り広げるシーンや、それが木琴や太鼓と重なったりする。百家争鳴の音の饗宴とでも言おうか。

楽章が進むにつれて、コパチンスカヤの動きは次第に活発になってゆく。弦楽器のセクションをぐるっと回って、指揮者が二人いるような状況を作り出し、会場に向かって何やら叫んだり。さらには終楽章で長大なカデンツァに挑んだ。これはもう彼女の独断場だった。音楽が終わると割れんばかりの拍手となったが、アンコールにはコンサート・ミストレスとして長年活躍した四方氏とのデュオで、やはりリゲティの「バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)」という曲が演奏された(とHPに掲載されている)。

ここで私は解説書から以下の点を記載しておかなくてはならないことに気付く。四方氏は都響に加わる前、西ドイツのケルン放送交響楽団(現WDR響)に所属していたそうだが、このリゲティのヴァイオリン協奏曲を初演したのが1990年のケルン放送響(ベルティーに指揮)で、これは丁度彼女のキャリアと一致する(1987年入団とある)。特に紹介されてはいなかったが、もしかすると彼女は初演時にこの曲を弾いているのではないかと思われる。

休憩時間が過ぎてオーケストラが倍増。通常配置ながらコントラバスだけで10人はいるか。バルトークの名曲「中国の不思議な役人」の全曲版である。この曲は通常、より短い組曲版で演奏されることがほとんどだが、今回はオルガンと栗友会合唱団が入る。このため通常のP席は空けられていた。組曲版は最後の3分の1がカットされているだけである。今月聞く都響の公演中、もっとも巧いと思ったのがこの「中国の不思議な役人」で、どうしてそう思ったのか、客観的にそうなのか、よくわからないのだが、とにかくも私は初めて実演で聞くこの曲の演奏に聞き入った。リゲティの刺激によって、オーケストラもリスナーも耳の垢がそぎ落とされたのだろうか?

音の洪水のような曲ばかり聞いてきたが、最後に演奏されたリゲティの「マカーブルの秘密」についてもまた多くを書かなければならない。この曲はもともとオペラ作品として作曲されたようだ。しかし本番直前に主役ソプラノ歌手が歌えなくなり、そこをトランペットで演奏したことによりこの曲が生まれる。わずか10分足らずの作品だが、今回の演奏(演技)は極めて印象的だ。楽団が登場したときに各奏者には新聞紙が配られ、それをクシャクシャにして放り投げるところから演技が始まった。コパチンスカヤは体中にポリ袋と新聞紙を巻き付け、異様な姿で舞台に登場。靴を脱ぎはだしになって何やら話す。マイクを通してその声は会場に伝わるが、何を言っているのかよくわからない。以降、この歌でもなければ話でもない「声」には、丁寧に対訳がブックレットに記載されているが、解説を読んでも意味不明である。

この「意味不明」の意味することは何か?おそらくゲシュタポ(秘密警察)の大いなる皮肉ではないか、などと想像がつくが、これを舞台上で徹底的に茶化しながらやっているコパチンスカヤ、のみならずオーケストラ、さらには遅れて登場する指揮者までもが演技を行う。「もうやってられないよ」などと大野が客席に向かって叫び、コパチンスカヤは仰向けになって演奏する、という具合。結局どこまでが楽譜に書かれ、どこまでがアドリブなのかもわからない不条理世界。だから笑ってしまうしかないのだが、それもこの時代と政治背景が生んだもの。バルトークからリゲティへとつながる戦前・戦後・冷戦時代の東欧がこの音楽の背景にある。

会場からは割れんばかりの拍手喝采が続き、本日を限りに引退する四方氏への花束贈呈も加わって舞台は大いに賑やかとなった。プログラム冊子にはその四方さんのインタビュー記事が載っていて、音楽の話かと思いきや漫才や野球の話が続き、同じ関西人として共感すること多し。サントリーホールを後にしたのは21時をとっくに過ぎていたが、何か不思議なものを見た今日のコンサートだった。

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