久しぶりに私は、コンサートに出かける前からそわそわし、あのベルリオーズの大曲が聞けることが嬉しくてたまらなかった。この年になってこういう経験はそうあるものえはない。朝から冷たい雨の降る初春の一日は、このようなコンサートにうってつけである、とも思った。そして前日から睡眠をしっかりとって、満を持して新宿文化センターに出かけた。
このホールは初めてである。そして東フィルはたまにここで合唱の入る大規模な曲のコンサートを開催しているが、これは東フィルの主催によるものではなく、このホールを運営する財団によるものである。新宿文化センターはアマチュアの合唱団を構成し、年に何回かのペースで演奏会を開いてるらしい。ベルリオーズの「レクイエム」は空前規模のオーケストラを必要とするから、アマチュアの合唱団との共演というのは、コストを考えると現実的なものである。それでもオーケストラは東フィル、指揮は首席指揮者のアンドレア・バッティストーニであるから不足はない。
だが最初に言えば、私はこの演奏会を楽しむことができなかった。最近出かけたコンサートで、このような経験は珍しい。その理由は、私が今月に入ってからなぜか極度に疲労感が強く、体調が万全とは言えない状況であることを差し引いても、納得のいくものではない。その理由を簡単に書いておきたいと思う。
まず合唱団がアマチュアであることにより、この曲の命とも言うべき歌声の清涼感や躍動感が少し期待外れに終わったことは紛れもない事実である。だがそれは、あえて言えば織り込み済みである。むしろ私が終始奇妙に思えたのは、合唱団の全員がマスクを付けていたことである。このことによって歌声の輪郭がぼやけ、ただでさえ厚ぼったい声に、さらに霞がかかった。
バッティストーニの指揮は果たしてベルリオーズに相応しいのだろうか。この曲は規模が桁違いに大きいにもかかわらず、実際のところは極めて精緻で、静かな部分も多い。ベルリオーズの作品は多くがそうなのだが、音の微妙な重なりとその平衡が維持されることによって醸し出される美しい響きが、旋律を際立たせる。そういう職人的テクニックを要するように思う。ところどころで聞かせ所はあったものの、終始全体像を捉え切れていないように思われた。これは合唱も同じ。
一方、特筆すべき素晴らしさだったのはテノールの宮里直樹で、出番は少ないのだが、舞台向かって右手のオルガンの位置に立って発せられた「サンクトゥス」の歌声は、会場の空気を一変させるに十分だった。
舞台には8名、計16台のティンパニと、大太鼓2つを含む打楽器群、舞台左右の袖と合唱団のさらに上にずらりと並んだ金管楽器が壮観。混声合唱は200名を上回り、オーケストラと合わせると出演者は400名近くに上った。演奏に休憩はなく、約100分の演奏が終わると長らく拍手が続いたが、私は早々に会場を後にした。そういうのも滅多にないことだった。期待をして出かけただけに、少し残念な結果に終わった。
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