2023年3月17日金曜日

東京都交響楽団演奏会(都響スペシャル)(2023年3月16日サントリーホール、大野和士指揮)

大きな物体を全体に写そうとすると、被写体を縮小して表示させる必要がある。ディスプレイの大きさは限られるからだ。あるいは地図で、より大きな範囲を一定の表示領域に印刷しようとすると、縮尺は小さくせざるをえない。マーラーの「復活」は、当時拡大傾向にあった「巨大ホールという楽器を目一杯鳴り響かせるべく、マーラーが20世紀に送り出した、新時代のための交響曲だった」(プログラム「月刊都響」3月号より)。だから、全体像を把握しようとすると、音楽はどうにもちいさくなりがちではないか、などと思った。少なくとも第1楽章の、あの長い交響詩「葬礼」の音楽は、ちょっとぎこちないように感じた。そしてここをあまりに気宇壮大に鳴らすと音楽が徐々に弛緩し、あるいは極度に集中力を高めると、エネルギーが後半に続かない。私が過去に接した演奏も、この曲が内在する問題点を浮き彫りにしていたように思う。ただそれも、1時間余りを経て到達する終楽章の圧倒的なスケールを前にすると、まあそれも仕方ないし、どうでもよい、という風になるのだが。

大野和士の指揮する音楽の特徴は、私の感想でいうと、その見通しの良さにあると思っている。彼はオペラのような長い作品であれ、まずは全体の大きさを把握し、その次に構成を考えている。その結果、非常にバランスよくまとまって破綻がない。全体像を見えやすくすると、しかしながら各箇所を取り出してみたときに、ちょっと物足りない。これは対象物(音楽)に起因するものであって仕方がないと思う。先発完投型の投手が、時にヒットを打たれたりすることと似ている。要所を抑えれば勝てるので、破綻しなければいいのだ。

だがこの日の「復活」は、第1楽章こそ「立ち上がりのぎこちなさ」を感じたものの、特に第3楽章以降はしり上がりに調子を上げ、終楽章にいたってはテンポを速めたり遅くしたりして大いに聞きごたえのある演奏になっていった。とりわけ私が驚いたのは、合唱の見事さである。この曲の合唱と二人の独唱に、これほど聞き入り、そして感動を覚えた演奏はなかった。これは大野の指揮が、やはり合唱を含めた全体像を的確に把握し、その要点を抑えているからに他ならないのだろう。例えば、ソプラノが合唱の中からすうーっと浮き上がる。隣でメゾソプラノも歌いだす、といった細部が、大きな全体の中でハイライトされ聞き手に届いた。こういう体験はこれまでになかった。聞き手である私に「復活」の全体を見通すゆとりが醸成されたから、というよりも、やはりこれは指揮と歌手の力量によるものだろうと思う。以上が、この演奏に関する私の「客観的な」感想である。

コロナ禍により幾度かにわたって中止を余儀なくされたマーラーの交響曲第2番「復活」の演奏会が、第970回定期演奏会として開催されることになり、同じプログラムがサントリーホールでも演奏される(都響スペシャル)とわかって以来、この演奏会を楽しみにしていた。前評判がいいのかチケットは早々に売り切れたものの、私のところに届いた電子メールには、追加発売があると書かれていた。これは何かの縁だろうと思った。この日は野球の試合などもあるが、「復活」には代えられない。そういうわけで手にしたS席は、1階後方の最前列。2人のソリストに中村恵里(ソプラノ)、藤村美穂子(メゾ・ソプラノ)という世界的に活躍する歌手を配し、合唱は新国立劇場。申し分がない。

毎週木曜日は、朝から新宿のオフィスへ出社することになっていて、この日は会社の帰りにあたる。久しぶりのサントリーホールには大勢の人出で、仲には「チケット求む」のプラカードを持った人までいる光景は、長らくお目にかかっていない。嬉しいことにマスクの着用もうるさく言われなくなって(そもそも音楽鑑賞中は言葉を発しないのに!)、ようやく日常を取り戻した感のある光景にしばし気持ちがやわらぐ。ここ数日の東京は初夏を思わせる陽気が続き、しかも天候が良い。日差しも明るくなって、私もコートを着ていない。そういう期待の高まる演奏会は、大変な名演だったようで演奏者が退場しても拍手が鳴りやまず、「復活」でこれほど感動したことはない、などといった感想を言う人が非常に多い。だが、音楽とは難しいものである。私個人の感想としては、そうではないことを言わねばならない。ただ、それがすべて演奏に起因するわけでもなさそうなのだ。

これは個人の日記であって、しかるべき公平性を求められているわけではない。そういうことは音楽評論家、もしくは音楽ジャーナリストに任せておけばいい。ただ、人の目に触れる文章であることは事実であり、私もすべてをここに赤裸々に綴るわけにもいかない。以下、非常に個人的な内容になることをお断りした上で、筆を進ませていただく。

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私は今月の初めに、幼馴染の友人を亡くした。これは急なことで、正月に知らせを受けたときには、もう幾日も余命がないとのことだった。私は慌てて手紙を書き、写真集などを送って励ました。しかしそれどころではない様子で返事は来ず、この間ずっと気になっていた。今月初めになって急に奥さんからメッセージが届き、家族に看取られて旅立ったとのことだった。私は関西まで通夜に出かけ、その足で実家にも帰省した。家族思いの彼は無類の歴史好きで、高校生の私を歴史散歩のようなことに誘って歴史好きにさせたことは、ついこの前のことのようである。私は20年以上前に大病を患い、何度か生死の間を彷徨ったのだが、いまでも辛うじて生きながらえている。その私より先に、まだ元気だった彼が逝くというのは意外であった。私は病後の体調維持と気分転換に歴史散歩を再開し、それは日本各地に及んでいる。全国に散らばる旧い友人を訪ねつつ、老後は旅行に励もうと考えている。その時、近畿地方南部の拠点として彼を訪ね、一緒に楽しく過ごそうと考えていた。その思いが果たせなくなった。

通夜の翌日、私は生まれて初めて堺市にある大仙古墳群などを精力的に回り、堺市旧市街にも足を延ばした。気温が20度を超える初夏の陽気で、貸自転車をこぐ私も汗まみれとなったが、告別式の時間中、そういうことをして時間を過ごした。私はずっと彼のことを考え、そして自分や彼の家族に与えた彼の存在の意味を問うた。つい1週間前の出来事を、私は「復活」の第1楽章を聞きながら思い出していた。これは死の音楽である。

通夜の間中、彼が好きだったビートルズの音楽が流れていた。私は自分の葬儀に、どんな曲を流してほしいか考え、そしておおよそその曲を決めている。このブログにも書いたが、それはモーツァルトのピアノ協奏曲K595で、演奏はエミール・ギレリスのピアノによるもの(カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)。この思いは今も変わらないが、ここに「復活」の第2楽章も加えたいと思った。この楽章はレントラーと呼ばれる南ドイツの舞踊音楽で、「きわめてのどかに」と書かれている。死者が復活するまでの時間遷移において、春の野を行くような音楽が奏でられる。K595の第2楽章に私はその雰囲気を感じるのだが、これは単なる陽気な踊りではない。したがってそのことを意識してか、これまでの名だたる名演奏の録音も、ただ明るい音楽にはなっていない。唯一(私が知る限り)小澤征爾の演奏が、陽気なセレナーデだと思う。でもそれでもいいのではないか?私のこだわりは、むしろそのときの静謐さにある。だからマーラーは第1楽章から間をおいて(最低でも5分!)この曲に入るように指示した。実際の演奏会で、どうしてこれを遵守しないのか、不思議である。

今回の演奏を聞きながら、私はそういうことをとりとめもなく考えていた。大変美しい演奏ではあったが、集中力がなく、どことなく落ち着かない感じでもあったように感じられたのは、私の方に原因があるのだろうか。ただ都響の音の響きが、ちょっと艶に欠ける。そのことが惜しいとも思った。

合唱とソリストが登場したのは、第3楽章に入る前だった。以降、3つの楽章はポーズを置かずに演奏された。第3楽章の「流れるような」音楽は秀逸だった。このあたりから、音楽にメリハリが出てきたように思う。友人の葬儀が終わって実家に帰省した私は、この間に叔父が亡くなっていたことを知る。私の病気に時にはいろいろ気遣って東京にまでお見舞いに来てくれた叔父だから、そういうことがあれば駆けつけたいと思っていたが、知らせがなかった。私はそれが少しショックだった。第3楽章の「子供の不思議な角笛」のメロディーに耳を傾けながら、私の心はちょっと乱れていた。

翌朝早々に実家を出て、私は20代の頃まで過ごした大阪北部の街を歩いていた。まだ行ったことのなかった道や公園に足を向けた。汗ばむ陽気はこの日も続いていた。私は小学生以来大学生になるまで一緒だった友人に30年ぶりに会った。コロナ禍の前、彼に何度か会おうとしたが、実家で母親を介護する彼にその時間は取れなかった。その後コロナ禍となり、私も連絡を控えていたが、その母親は亡くなり彼にも時間ができたようだ。一人っ子の彼は、母親の我儘を無視できず、献身的に介護したのだろう。だがそれは尋常なレベルではなかった(と彼は言った)。そのことが原因かはわからないが、会社を辞める直前までいったらしく、離婚もしたようだ。ここで私は、親子の関係、あるいは最後の看取り方について考えた。昔と変わらず穏やかに話す彼の表情からは、そのような身内の介護の実態は伝わってこない。けれども辛い日々だったのではないかと想像する。母親への鎮魂歌とはいったいどのようなものだろう。心の闇がそのまま墓場まで持って行かれる。もしかすると当事者でさえ、その闇を自覚することなしに。

にわかに低いメゾ・ソプラノの声が会場にこだまするとき、私はいつもはっと驚く。長い「復活」でこんなに印象的な瞬間はない。我が国を代表するワーグナー歌手である藤村美穂子の歌唱が、これにうってつけであることは間違いがない。このあたりから音楽が引き締まってくる。「復活」の第4楽章。「原光」と題されたその歌に、闇の中に差し込む光を見る。死者復活までのトランジション。ここでの「復活」とはイエス・キリストの神としての復活だから神々しい。そして音楽はそのまま長大な第5楽章へと流れ込む。だが、終楽章に入っても合唱が加わるまでには、まだしばらく時間がかかる。オーケストラのみの音楽が、時に舞台裏からも聞こえ、会場にこだまし、盛り上がっては静かになる、といった起伏を繰り返す。それはあのマーラー独特の(というよりは現代人としては日常の)神経症的かつやや分裂気味の音楽である。私の心情は、このような音楽に非常にマッチしていた。私はこのたび多くのことが私の心に押し寄せ、気持ちにゆとりを欠いている。さらには何年も続く体調不良と死に対する不安、そしてこの時期にあっては花粉症や長く続く口内炎、腰痛、白内障といったものすべてが、私の音楽鑑賞をより困難にしているという事実に直面している。

マーラーの音楽はこのように、私の心を投影しているかのようだ。ただ少なくとも第1番「巨人」から第5番あたりまでは、まだ錯綜した感覚が少ない。第6番あるいは第7番あたりが、ちょっと錯乱気味の心理に合っている。大野和士は来シーズンの幕開けを第7交響曲で飾るようである。その演奏会にも出かけてみようかと思いながら、その前に予定されている2つのハンガリー系音楽の演奏会(バルトークとリゲティ)にも注目している。そのような音楽の方が、大野和士の音楽に似合っているような気もしているからだ。

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