2025年4月30日水曜日

NHK交響楽団第2036回定期公演(2025年4月27日NHKホール、ファビオ・ルイージ指揮)

N響は来る5月、オランダのアムステルダムで開かれる「マーラー・フェスティヴァル2025」に、アジアのオーケストラとして初めて登場し、首席指揮者ファビオ・ルイージの下交響曲第3番と第4番を演奏するらしい。これは画期的なことだと思われるが、その公演に先立ち5月の定期公演では、同じプログラムが演奏される。今回出かけたA定期では、交響曲第3番が取り上げられた。

交響曲史上おそらくもっとも長大なこの作品は、普通に演奏しても100分に達する大曲である。女声合唱、少年合唱、それにアルトの歌手も必要とする。このたびの独唱はロシア人のオレシア・ペトロヴァで、彼女はこれまでたびたびN響とも共演しているようだが、私は初めて聞く。一方、合ペトロヴァ唱団はオランダでは地元の団体を起用するようだが、今公演では東京オペラ・シンガーズとNHK東京児童合唱団が受け持った。広い舞台に何段にも設えられた合唱席が高らかと並び、大規模なオーケストラを含め壮観である。

3800人も収容するNHKホールは、紅白歌合戦を開催するために設計されたため、クラシック音楽のコンサート会場としては広すぎて音響が悪いことで有名である。でもこのような大規模な作品では、このくらいの広さを必要とするのだろうか。そして2日ある両公演ともチケット完売というのも珍しい。3階席の隅にまで誰か座っている。その私も3階席の脇の最前列である。ここからだとグラスがないと表情を見分けることは難しい。

マーラーの交響曲第3番は、3つある「角笛交響曲」の真ん中の作品だが、長い曲にもかかわらず静かで精緻な部分が大半を占め、集中力を絶やさず演奏することは並大抵のことではあるまい。コーラスが歌うのは第5楽章に限られるので、最初から登場すると待ち時間が長いし、途中で退場すると緊張感が失われる(本公演では第1楽章の後に合唱が、第2楽章のあとにソリストが登場し、第5楽章を歌い終わった時点で着席した)。

さてその演奏だが、私の数少ないこの曲の経験(たった3回)の中ではベストであり、おそらくこの演奏を上回るものに今後出会う事はないと思われた。気合の入った演奏は、第1楽章冒頭からの、異様にも感じられる凝縮度を見ればよくわかるくらいで、ルイージも緊張を隠せないくらい。大きな身振りでグイグイとひっぱってゆく。そのことが、ちょっと演奏に堅苦しさを与えたと思う。もう少し余裕があるととは思ったが、それも30分にも及ぶ第1楽章では、そこそこ大きな音も鳴って聞きごたえがあるし、客席もまだ体力があるので、胸に熱いものを心に感じつつこれから始まる長い旅への期待を膨らませる。

それにしても今回の聴衆は、とても思い入れが強い人たちが大挙して押し寄せているように見えたし、オーケストラも首席奏者揃い踏みの布陣である。8本のホルンが冒頭で奏でるユニゾンもまるで単一の楽器のように見事で、それに続く2つのティンパニ、3つのシンバルもピタリと揃っていた。

長い第1楽章が終わっただけで相当疲れたが、まだ音楽はそのあと1時間以上続く。第2楽章と第3楽章はいわゆるスケルツォ風だが、ここの聞き所は満載である。だからまだ緊張感は抜けない。特に第3楽章にはあの長いポストホルンの独奏がある。私はここの部分に入った時、その奏者がどこにいるのかを、何度も何度も目を皿のようにして探したが見当たらない。あとでわかったのだが、奏者は舞台裏にいたようだ。だがその音色はまるで舞台前面で演奏しているかのように朗々と会場にこだまし、見事というほかないものだった。

長大な第1楽章といい、精緻を極める中間楽章といい、CDなどで落ち着いて聞くことになれすぎていると、ミスなく演奏して当然と思ってしまう。このような長い曲ほど、実演に接する機会が少ないので、つい完璧に演奏されてしかるべきなどと思ってしまうが、それはとんでもない間違いで、実際には音楽は一期一会の芸術である。客席と演奏者が一体となって作り上げる時間の連続が、最高にエキサイティングであり、またいとおしくもある。

第4楽章のペトロヴァの声が聞こえてきたとき、低く垂れこめた雲の合間から光が差すような瞬間に身震いを覚えたのは私だけだっただろうか。マーラーの曲ではしばしば化学変化が生じ、ある瞬間から会場全体が一種の神がかり的モードに入ることがある。今日の演奏会の場合、このあたりだったと思う。ここから先、特に終楽章の見事な弦のアンサンブルをまるで雷に打たれたように聞き入ったのは、私だけではない。徐々に築かれるクライマックス、長い長い道のりのあとに到達する愛の賛歌。だが第3番は第2番と違ってただ熱演をすればいいだけの曲ではない。

聞かせ所のうまい指揮者がオーケストラとがっぷり四つに組んで、最高の聴衆を得たときにのみ実現され得る音楽の奇跡が、あったと思う。もっと頻繁にコンサートにでかける余裕があれば、あるいはもっと完成度を上げた演奏に出会える可能性はあるかも知れない。だが、私に許された制限の中では、この曲のベストだと思うことにしようと思う。5月11日のコンセルトヘボウでの演奏会は、現地でビデオ収録される予定だそうで、NHKで後日放送されるだろう。その時に今回の演奏を思い出しながら、よりこなれた演奏(になっていることを期待する)に酔いたいと思う。

とにかくN響の持てる力が十二分に発揮された演奏会だった。演奏が終わっても指揮者がタクトを下ろし終えるまで音を立てる者はいなかった。そしてあふれ出すように始まった拍手とブラボーが、これほどにまで大きかったことを私は知らない。満員御礼のNHKホールをあとにして、新緑の眩しい代々木公園でやさしい風に吹かれながら、いくつかのフレーズを思い起こしていた。これはこの作曲家の「初夏」の音楽である。

2025年4月28日月曜日

ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」(2025年4月26日サントリーホール、広上淳一指揮)

流れるように綺麗なメロディーと、情熱に溢れる歌声、そして息をつかせないほど緊張感に満ちた舞台。三位一体となったヴェルディ中期の大作「仮面舞踏会」をサントリーホールで見た。セミ・ステージ形式とされた舞台は、いわゆる演奏会形式ともまた違ってしっかり演出がされており、衣装や舞台道具、それに照明までついて本番さながらの演技力が要求される。それは時に民衆の、時に暗殺集団の声を表現する合唱団にも言える。

いわゆる歌劇場と異なるのは、舞台の真ん中にオーケストラと指揮者がいることだ。舞台はサントリーホールの構造を生かしてオーケストラをぐるりと囲んでいる。合唱団はオルガン前のP席に黒い幕を覆って客席の一部であることを上手に隠し、オルガン前にもずらりと金管の別動隊が並ぶ。その数、20名余り。

指揮者の広上淳一は、音楽の自然な流れをとても重視し、その中から音楽的なバランスを極めて上手く引き出す指揮者だ。それは職人的と言っていいほどで、その音楽がマーラーであれモーツァルトであれ、音符の長さを十分に表現し、強弱をつけて生理的にもっともしっくりくる位置に定めることができる。その広上がヴェルディを振るときいたとき、歌手をさしおいてこれは「買い」だと思った。発売日にチケットを買うのは、私にとっては異例のことだ。カレンダーに丸印をつけ、大型連休が始まるので他の予定を誤って入れぬよう細心の注意を払った。もちろん体調を整えることも。

前奏曲の簡潔にして表情豊かな音楽が聞こえてきたとき、やはり今回は並々ならぬ力がこもっていると感じた。最大音量のアンサンブルでも乱れることはなく、枠役の歌唱を含め、そのバランスが理想的に文句のつけようがなく美しいことは言うまでもない。東京に数多くのオーケストラがあって、評判の指揮者が多くのコンサートを開いているが、広上の指揮する日フィルの音はその中でも一頭上をいっていると確信している。それを実現させているのが、あのひょうきんとも言えるような指揮姿だが、決して笑いを取るためのものではなく、理想的な音楽表現を体現するためにあのような姿になるのだろう。

それは歌唱を伴った場合でも同じである。だが今回の部隊、その歌手陣の見事さたるや、何と言っていいのだろうか、一点の非の打ちどころもないくらいの高水準で、誰から記載していいのかもわからない。登場順で行けば、ヴェルディの作品としては異例の小姓役である森田真央(オスカル)の、よく動き回る役作りに感心したし(もう少し印象的な衣装をつけていても良かった)、登場するのが前半に偏っている謎の占い師を演じたメゾ・ソプラノの福原寿美枝(ウルリカ)には、地の底から燃え上がるようなおどろおどろしい歌声が会場にこだまし、この歌声で是非ともアズチェーナ(「イル・トロヴァトーレ」)を聞いてみたいと思った。

総督の友人にして忠実な部下であるレナート役を歌った池内響は、実直でスマートな印象をもたらすもので、痩せて高身長な容姿も含めピタリとはまっている。ヴェルディがもっとも力を注いだのは言うまでもなくバリトンで、その役柄としてこの上なく素晴らしいのだが、サントリーホールは響きが良すぎて残響が大きいのが、この場合難しいところだ。だがこんな贅沢な悩みを語るのはよそう。

さて、「仮面舞踏会」の二人の主役、すなわちアメーリアの中村理恵とリッカルドの宮里直樹について語る時が来た。これほどにまで理想的で素晴らしいヴェルディの歌声を聞いたことはない。特に宮里のテノールは終始圧倒的な存在感を示し、この舞台の主役として文句のつけようがないくらいである。やや小太りなのに声は高い、という容姿の適合感もさることながら、その高貴な歌声は、パヴァロッティのようないわゆるベルカントオペラのそれではない。一方、中村理恵は世界中のオペラハウスで活躍する我が国を代表するディーヴァだが、アメーリアの役でも「愛の二重唱」に力点を置いて葛藤に満ちた女性心理を歌い上げた。

どの重唱が、どのアリアが、などと言うのではなく、次から次へとつながれてゆく力量に満ちた音楽は、集団テロという陰惨な企みを扱ったストーリーとは違って歌、また歌の醍醐味を味わわせてくれる。だから深刻になることはないばかりか、極上の娯楽作品のようですらある。さりとて滑稽すぎるわけでも、陰鬱なものでもない。ヴェルディの作品は、総じて極めて常識的なのでそこがいいところ。こういう作品が30もある。

私は中期と後期の作品を中心に、多くを最低1回は舞台で見てきた。体調が悪くて昨年「マクベス」を聞き逃したのは惜しかったし、「運命の力」と「ドン・カルロ」はまだなのだが、こういった作品も是非取り上げて欲しいと思う。

セミ・ステージ形式(演出:高島勲)というのが、新しいオペラの表現形態として十分に成立することを示している。登場するのが全員日本人であるというのも悪くない。外国から有名歌手を招聘するとコストがかかるし、練習にも制約ができる。そうでなくても我が国の歌手は、これらの外国勢に隠れて、実力ある人でも主役を歌う機会に恵まれない。だから、こういう企画は大いに称賛されるべきだし、チケット代が下がることで真の音楽好き、オペラ好きが気軽に楽しめるようになればと思う。

次第に高潮して行く舞台に引き込まれ、途中からブラボーの嵐が飛び交ったのは当然だった。広上はその時その時で指揮をストップし、客席と一緒に拍手を送る。オーボエやチェロがソロを担当するシーンでは、そこに照明が当たるのも面白い。普段はピットに隠れてオーケストラを意識することがない(ようになっている)。普段はほとんどオペラを演奏しない日フィルも、舞台で思いっきりヴェルディ節を奏でるのが楽しそうに見えたし、それに何と言っても広上の陽性な指揮と一体となった舞台が、まるで歌舞伎をみるかのように楽しく、字幕を含めどこに視線を送ればいいのか大忙しだった。合唱も良かったが、何と言っても舞台に隠れていたヴェルディの音楽が、ヴェールを脱いで間の前に溢れたことが新鮮だった。

興奮冷めやらぬ聴衆からは惜しみない拍手が続き、出演者も会心の出来だったと見えて長く舞台でカーテンコールに応えていたのが印象的だった。

2025年4月16日水曜日

NHK交響楽団第2034回定期公演(2025年4月13日NHKホール、パーヴォ・ヤルヴィ指揮)

2022年までN響の音楽監督を務めたパーヴォ・ヤルヴィが、久しぶりにN響の定期に出演する。5月の海外公演を控え、今月の定期は2回(A定期とB定期)のみで、このうちB定期は予定があって行けないから、行くとしたらA定期だと思っていた。演目は前半がベルリオーズの「イタリアのハロルド」、後半がプロコフィエフの交響曲第4番という贅沢なもの。どちらもヤルヴィの歯切れの良さとリズム感のセンスが光る名演になると予想された。

ベルリオーズの好きな私は、いまだに「イタリアのハロルド」を実演で聞いたことがなかったので、いつか、と思っていた。この曲はヴィオラ付き交響曲という珍しいもので、当然のことながら優秀なヴィオラ奏者を必要とする。我が国には今井信子という世界的に有名なヴィオラ奏者がいるが、私はいままで接する機会を持てないでいる。このたび招聘されたのは、アントワーヌ・タメスティというパリ生まれの奏者で、「ソロ、アンサンブルの領域を自在に行き来する現代最高峰のヴィオリスト」とプロフィールに書かれている。

チューニングが終わって指揮者が舞台に登場し、タクトを振り下ろしたときに、ソリストがまだいない。あれ、と思ったのもつかの間、舞台左袖からそろりそろりと登場したタメスティは、ゆったりとした序奏のあいだに何とハープ奏者のそばに行くではないか!最初のハープとの重奏が、なんと室内楽のような趣で演奏されたのには驚いた。以降、独奏者はオーケストラの間を行ったり来たり、指揮者の横に居続けることはなかった。

N響の見事なアンサンブルは、ヤルヴィの指揮によくマッチし、まさにベルリオーズの音を奏でていた。ときおり見せる幸福で歌のあるメロディーは、ややくすんだヴィオラとオーケストラに溶け合って幸福感に満ち溢れ、どちらかというと高音中心の軽い旋律は、何となく春の季節に相応しい。ここの第1楽章は、ベルリオーズの真骨頂のひとつだと思う。

一方第3楽章の躍動感あるリズムは、この曲最大の聞きどころのひとつだが、2つのタンバリンの連打と太鼓が織りなす独特のリズムは、聞いているものを何と楽しい気分にさせることか。不思議なことに胸が熱くなり、涙さえも禁じ得ない美しさが進む。ヤルヴィに率いられたN響のアンサンブルの面目躍如たる名演だと思った。

ヴィオラは終楽章で一時退場し、再び登場した時には第一ヴァイオリン最後列の二人と競演。そういった見事な演出を繰り広げながら終演を迎えた時、満席に近い会場から盛大なブラボーが乱れ飛ぶ事態となった。コンサート前半でこれだけの拍手と歓声が起こるのは、私の400回に及ぶコンサート経験(そう、今回は丁度400回目だ)でも初めてではないかと思う。

地味であまり目立つことはないヴィオラという楽器の魅力を十二分に発揮して見せたタメスティは、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番をヴィオラ用にアレンジした一曲を披露。さらにはオーケストラのヴィオラ・パートのみを起立させたことは、この楽器に対する愛情の現れとして思い出に残るだろう。

後半はプロコフィエフの交響曲第4番だった。この曲はボストン交響楽団の創立50周年記念のために作曲されたが、初演は成功せず後年大改訂を施した。本日演奏されたのは、その改訂版での演奏である。プロコフィエフは日本を経由してアメリカに亡命し、さらにパリで生活したことは有名だが、この作品はパリで作曲され、その後ソビエトに帰国して改訂された、ということになる。

演奏はN響の機能美が満開で、ヤルヴィのきびきびしたタクトのもと、オーケストラのアンサンブルの見事さが光った大名演だった。第1楽章の行進曲風のリズムは、大オーケストラが高速で突き進むさまを楽しむことができる。この演奏が始まる前、指揮者の正面にピアノが置かれ、そういうことのためかオーケストラはいつもより前面に位置している。このため3階席最前列の私の位置にもオーケストラの音は十分に伝わって来る。

ヤルヴィは翌週のB定期にも登場し、ストラヴィンスキーやブリテンの魅力的な作品を演奏する。これはまた聞きものだが、私は約40年ぶりに韓国・慶州への旅行に出かける予定である。4月にはもう一度C定期があって、これはルイージがヨーロッパ公演で取り上げる曲を演奏するらしい。マーラー・フェスティヴァルにアジア初のオーケストラとして登場し、交響曲第3番と第4番を披露するらしい。私は今回、シーズン・チケットを買ったため、このうちの第3番の演奏会に行くことになっている。今から楽しみである。

2025年4月15日火曜日

東京春祭オーケストラ演奏会(2025年4月12日東京文化会館、リッカルド・ムーティ指揮)

2005年「東京のオペラの森」として始まった音楽祭は、今年でもう21周年を迎えたことになる。2010年からは「東京・春・音楽祭」として、丁度桜の咲く3月から4月にかけての上野公園一帯で繰り広げられる音楽祭として規模も拡大し、今ではすっかり春の風物詩となった。

私は2014年から4年かけて行われた「ニーベルングの指環」の演奏会を鑑賞したのをはじめ、今年までほぼ毎年、何らかのコンサートに出かけてきた。最初は小澤征爾を中心に、新作オペラを上演するというのが恒例だったが、2006年(たった2年目)からはリッカルド・ムーティも登場し、その後毎年のように何らかのコンサートを指揮するようになった。今彼が指揮するオーケストラは、専ら若手を中心に特別編成された東京春祭オーケストラで、海外の劇場とのコラボレーションや教育的なプログラムなど、様々な企画が始まり、その他にも多彩な顔ぶれと普段は聞けない珍しい室内楽曲など、意欲的で興味深い日々が続く。

今年の管弦楽のコンサートのトリを飾るのが、リッカルド・ムーティが指揮するイタリア・オペラの序曲・間奏曲などを集めたプログラムであることを知った時、私は即座にチケット購入を決意、妻と二人で出かけることにした。何と言っても御年84歳にもなるムーティが、(それでも彼は毎年何回か来日しているようだが)なお現役の指揮者として意欲的な演奏を繰り広げているのを観たいと思ったし、いまや巨匠とも言えるような指揮者は、ティーレマンを除けば彼が最後ではないか、などと考えたからに他ならない。

ムーティを聞くのはこれが3回目(正確には4回目)である。最初は1990年、旅行先のニューヨークでのことだった。この頃ムーティは、オーマンディの後を継いでフィラデルフィア管弦楽団のシェフを務めており、ニューヨークへもたびたび訪れて定期的な演奏会をしていた。この時聞いたのはベルリオーズの「夏の夜」(独唱:バーバラ・ヘンドリックス)とスクリャービンの交響曲第3番「法悦の詩」だった。1階のオーケストラ席真正面で聞いた演奏は大変見ごたえがあったが、当時の私にとっては馴染みの曲ではなく、あまり印象は残っていない。

その後ムーティの指揮する極めつけの2つのオペラ(「ナブッコ」と「シモン・ボッカネグラ」、いずれもローマ歌劇場の来日公演)を大枚を払って立て続けに見て、もうこれ以上のものはない、と思って遠ざかっていた。その間にアバドや小澤征爾が亡くなり、メータやバレンボイムも活躍を聞かなくなった。私がクラシック音楽を聞き始めた頃、まだ若手だった指揮者が次々と姿を消してゆく中で、ただ一人まだ精力的に活躍を続けているのがムーティである。今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、ムーティの指揮だったことは記憶に新しい。

けれどもこのムーティのニューイヤーコンサートは、私を少々がっかりさせた。ウィーン・フィルの響きがいつもとは違って精彩を欠いていたからだ。録音の方はそう思えず、これはテレビのライブ中継を見た時の感想である。もしかしたらムーティも、高齢による衰えを隠し切れなくなったのだろうか。だとしたら私は今回の来日コンサートで、もはや精彩を欠いた彼の指揮姿を見ることになるのだろうか?まあそれはそれで、記念になると思いつつ当日を楽しみにしていた。

だが指揮台に現れたムーティは、足取りも軽やかで指揮姿も勇みよく、確かにかつての若々しさはないものの、なかなか切れのある音楽を作るではないか。この若手中心のにわか作りのオーケストラを、短期間のうちに手中に収め、歯切れのよいリズムと旋律がくっきりと浮かび上がるカンタービレに特徴付けられた往年の音作りは、まさにムーティの真骨頂であり、誤解を恐れずに言えば、正真正銘のイタリア流であった。

ムーティはまず「ナブッコ」序曲(ヴェルディ)で期待を膨らませたあと、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ)のうっとりするようなメロディーを、実際幕間に聞こえる間奏曲らしく演奏した。前半のプログラムで私が最も感動したのは、「道化師」間奏曲(レオンカヴァッロ)だ。「カヴァレリア・ルスティカーナ」と合わせて上演される2つのヴェリズモ・オペラのうち、「カヴァレリア」の方が親しみやすく音楽もきれいだが、「道化師」の方がやや複雑な心情を表現しており、音楽的充実度が高い。イタリア・オペラの神髄ともいうべき人生の宿命と儚さを、簡潔かつ雄弁に表現している。

ムーティはこのあと、「フェドーラ」間奏曲(ジョルダーノ)、「マノン・レスコー」間奏曲(プッチーニ)と続けて演奏し、これらはいずれも実際の劇中で演奏されると極めて印象深いが、このように間奏曲のみ立て続けに演奏されるとやや単調になる。けれどもこれは贅沢な悩みでしかない。思えばムーティのプッチーニなどどいうのも珍しい。

前半最後を飾るのは「運命の力」序曲(ヴェルディ)で、これは十八番中の十八番。確かフィラデルフィア管弦楽団との来日の際にもアンコールで演奏された記憶がある。トスカニーニ張りの緊張感を保ち、音の強弱を際立たせながら、流れるようなメロディーとたたみかけるようなリズムは健在だ。そういうわけで満員の客席からは前半からブラボーも飛び交うこととなった。

今回の客席には高齢者が目立ち、足どりも重い人が多い。にもかかわらず東京文化会館というところは、トイレに行くにも階段を上り下りしなくてはならず、しかも狭い。傘立てもなく客席は狭いが、音響は悪くない。

後半のプログラムは2つ。まず、カタラーニの「コンテンプラツィオーネ」というめずらしい曲。この曲を聞くのは勿論初めてだったが、わずか10分余りの長さながら、やはりそこにはレガートで音と音がなめらかにつながれてゆくさまを味わうことができる。なお、コンサートマスターはN響の郷古廉である。

もう後半最後になった。「ローマの松」(レズピーギ)である。オーケストラが最大に拡張され、3つの鍵盤楽器のほか両脇に金管楽器の別動部隊も配置された。クラシック音楽で最大の音量を誇るこの曲は、その圧倒的なコーダで有名だが、きらびやかな冒頭と夜の静けさを表現した中間部、それに朝もやにこだまする小鳥のさえずりなど、聞き所には事欠かない。ムーティはゆったりとしたテンポで味わい深く音を刻み、その印象は、これまで同曲を聞いた中では最高のものだった。

オーケストラは指揮に極めて忠実に対応した。コーダに向かって大団円を築く時、フォルティッシモになっても乱れない響きの綺麗さには圧倒された。イタリア音楽を演奏するとき、音というのがどのように重なり、繋がり、あるいは引き延ばされるべきか、何度も細かく練習したのだと思う。これはムーティにしかできないような職人技に思えた。拍手の大喝采、ブラボーの嵐が満員の会場にこだました。退場時に抱き合って喜ぶオーケストラのメンバーに惜しみない拍手が送られた。そしてムーティも、退場しかけたオーケストラの中に再び登場、花束を持って会場に手を振っていたのは印象的だった。

2025年4月12日土曜日

ヴィヴァルディ:ギター協奏曲集(g: アンヘル・ロメロ、アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

社会人になってはじめてのボーナスで買ったスピーカーを、33年ぶりに買い替えた。長年聞いてきたONKYOのスピーカーは、ツイーターが壊れてノイズが乗り、コーン紙は破れて音が割れていた。その状態で20年以上我慢したのは、ひとえに部屋が狭かったり、子供が小さかったからだ。引越しを繰り返した若い頃は仕事に忙しく、そもそも音楽を家で聞く余裕はなかった。私の音楽体験は、月に一度程度の演奏会と、あとはイヤホンで聞く携帯音楽プレーヤーに限られていた。

昨年の春に息子の受験が終わり、家を出て行ったので、我が家にようやく自分の時間と空間が生まれた。そうだ、スピーカーを買おう。そう決心したのは涼しくなってきた秋の頃で、そうなると居ても立っても居られなくなり、家電量販店に赴いて試聴する時間も勿体ないので、評判の良さそうな代物をネット検索するうち、YAMAHAのトールボーイ型に目が留まったのだ。YAMAHAにしたのは、かつて聞いたいい音の体験が、ことごとくYAMAHAだったことに加え、舶来品はこのところの円安で、値段が高騰しているからだった。YAMAHAのスピーカーは、ピアノに使われる素材でできており、艶があって高級感を放ち、インテリアとしても抜群に思われた。3-wayというのも気に入ったし、これを機にスピーカー・コードも新調した。

新しいスピーカーで聞く音楽は、買わなくなって久しいCDに、再び耳を傾ける機会を与えてくれた。それまで聞いていたCDでは聞き取れなかった細微な音まで再生してくれるので、ごく小さな音量でも落ち着いたムードに浸ることができる。今まではある程度大きな音で聞かないと、音楽が楽しめなかった。このことは、演奏の好みに影響を与える事態となった。そして今日は、春爛漫の陽気の中、朝から何かを聞こうと思い、取り出したのがヴィヴァルディの協奏曲集である。

バロック時代の後期にヴェネツィアで生まれたヴィヴァルディは、600余りの協奏曲を作曲したことで有名で、このほかにも50を超えるオペラ、70を超える室内楽曲を作曲した大作曲家である。当時、音楽の都はまだウィーンではなくヴェネツィアだった。そのヴィヴァルディの、特にギターを独奏楽器とする協奏曲集が、私の手元にあった。ギターの名手アンヘル・ロメロが独奏をつとめる。もっとも収録されている7つの曲は、もともとはギターのための曲ではない。その収録曲をオリジナルを含めて記すと以下のようになる。

1. 協奏曲ト長調RV435(フルート協奏曲)
2. 協奏曲イ短調RV108(フルートと2つのヴァイオリンのための協奏曲)
3. 協奏曲ニ長調RV93(2つのヴァイオリンとリュートのための協奏曲)
4. トリオハ長調RV82(ヴァイオリンとリュートのためのトリオ・ソナタ)
5. 協奏曲ニ短調RV540(ヴィオラ・ダ・モーレとリュートのための協奏曲)
6. 協奏曲ト長調RV532(2つのマンドリンのための協奏曲)
7. 協奏曲ホ長調RV265(ヴァイオリン協奏曲)

ヴィヴァルディと言えば「四季」が突出して有名だが、たしかに我が国の入学式で演奏されるのが「四季」の「春」となっていて、桜の咲くシーズンのイメージにぴったりである。イタリアの春を旅行したことはないのだが、不思議なことにヴィヴァルディで聞くヴァイオリン協奏曲は、この時期の明るく霞がかかり、少し眠気も誘う物寂しい心境によくマッチしている。

日本人は古来、桜に人生の儚さを見出し、その心象風景は陽気一辺倒なものではなかった。「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(紀友則)というわけである。この心理にピタッとくるのが、膨大な数に上るヴィヴァルディの協奏曲、その緩徐楽章であると感じている。そのヴァイオリンのパートをギターで奏でると、さらにムードが増す。もともと音量が小さく繊細で、弦をはじいてもすぐに減衰する音波は、まさに儚い音楽の物理学的証明でもある。チェンバロもその類で、これによる通奏低音などが加わると、風景は「動」ではなく「静」となって目の前に現れる。

YAMAHA NS-F700

イタリアの春は、日本の春に似ているのだろうか?少なくとも四季がはっきりと分かれ、そのそれぞれに思いを巡らす伝統があるとすれば、このヨーロッパ文化の核を成していた国に大いに共感を抱くことになる。ともあれ、今朝は心地よいイタリアのバロックに耳を傾けた。このロメロのディスク、かなり久しぶりに聞いたが、アカデミー室内管弦楽団(と我が国では呼ばれる)の明瞭な伴奏が心地よく、あっという間に最後まで聞いてしまった。

実は今日、東京・春・音楽祭でリッカルド・ムーティの指揮するイタリアの管弦楽作品を聞く。そのための序奏として、この演奏は大いに気持ちを高揚させるものだった。桜の歌をもう一つ。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)。

2025年4月8日火曜日

ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス(2025年3月6日東京文化会館、ヤノフスキ指揮)

CDなどのメディアで聞く時と、実演を聞く時とでは、同じ曲でも印象が随分異なることが多い。どちらがいいかは、一概に言えない。このたび私は、生まれて初めてベートーヴェンの大曲「ミサ・ソレムニス」を聞いた。一生に一度は生で聞いてみたいと思っていた曲だ。2020年、ベートーヴェン生誕250年の年にこの曲は演奏されるはずだった。ところがコロナ禍で多くのコンサートが中止を余儀なくされた。この曲を聞く機会は、いったん消えてしまった。あれから5年、ようやく再びその機会が訪れたのだ。

ベートーヴェンは「第九」の前に「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)」を作曲した。この2つの大曲は並行して作曲が進められた。「第九」の方はほとんど人がメロディーを知っており(だって年末のスーパーマーケットに流れている)、一部の人は一節を原語で歌えるほどであるのに対し、「ミサ・ソレムニス」の方はまったくそういうところがない。何度聞いても、この曲を口ずさめるようにはならない。だが「ミサ・ソレムニス」は「第九」に比して劣る作品かというとそうではなく、むしろ秀でた作品とされている(それはベートーヴェン自身が言っていることだ)。

けれども「ミサ・ソレムニス」が演奏される機会は非常に少ない。4人のソリストと合唱団を揃えるのが大変で、コストに見合わない、というのは事実ではない。なぜなら同じ規模の「第九」は、それこそ(我が国では)年中演奏されているからだ(曲が難しいから練習が大変であるにもかかわらずチケットが売れない、ということはある)。おそらく音楽的な要素が両曲で異なり、ミサ曲にはそれに合わせた複雑な技法が駆使されている、と見るのが正しいのではないか。私は楽譜も読めないが、おそらくこの曲は歌うのもかなり難しい。第一、4人のソリストと合唱はほぼずっと歌っており、オーケストラも大変な力量を要するように思う。それを束ねる指揮者となれば、いわゆる素人の熱演では済まされない側面があるのだ。

巨匠が残した録音でも、これを80分にもわたって聞き続けるだけの集中力を維持するのは難しい。いっそ実演で聞くことができれば、その音楽の実際のところが見えてくるのではないか。私はそう考えた。そしてその時が来た。今年21年目となる東京・春・音楽祭で上演されたワーグナーの「パルジファル」は大変な名演だったようだが、その際に登場したソリストと合唱団、それに指揮者とオーケストラが、わずか数日後にこの曲を披露する、というのだからちょっとしたものである。

その独唱陣は次の通り。ソプラノはグアテマラ出身!のアドリアナ・ゴンサレス、メゾ・ソプラノがアリアーネ・バウムガルトナー、テノールにステゥアート・スケルトン、そしてバスはタレク・ナズミ。いずれも世界的に活躍するワーグナー歌手陣。グルネマンツやクンドリを歌った歌手が、そのまま東京に残って歌う贅沢なもの。マレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団、合唱は東京オペラシンガーズ。4月4日にも同じ演目のコンサートがあったから、これは1日空けての2回目ということになる。

全体に8割程度の入りに見えた。私は3階席の向かって左端で、少し視界が遮られるがオーケストラを見下ろす感じで悪くない。歌手陣はオーケストラの後、合唱団の前に陣取るから良く見える。そして驚いたのは、その音の生々しさだった。4人のソリストのみならず、オーケストラの響きの豊穣さに圧倒された。これはNHKホールではありえない音だと思った。3階とは言え、この席は悪くないのか、それともホールがいいのか、あるいは音作りが抜群に上手いのか。とにかく家でスピーカーから聞こえる音とはけた違いにヴィヴィッドである。特に管楽器と低弦の響きが大変美しいと思った。

ヤノフスキの指揮は速すぎるという人がいるが、これは体感的なものだろうし、最近はこの曲もスッキリした演奏が増えているので、私は違和感はない。そして冒頭にも書いた通り、これほど見事な音楽が生き生きと響いてくることに、心から驚かざるを得なかった。それが最初だけなら、良くある話だ。しかしヤノフスキの指揮は弛緩することなく集中力を維持し、全体の長さと規模の大きさを見通すバランスも見事だった。短期間とはいえ、「パルジファル」から続く共演によって生み出された一体感、呼吸の良さ、インティメーションとでも言うべきものが感じられた。

ベートーヴェンの大作は、途中から訳が分からなくことがある。「フィデリオ」の第2幕がそうで、熱量が過剰気味となりストーリーなどどうでもよくなってくる(その意味で極めてバランスの悪いオペラだ)。「第九」の第4楽章にも若干そのような傾向があるが、この「ミサ・ソレムニス」にも同様なものを私は感じていた。ところが今回の演奏では、そのような歪みが感じられなかった。醒めた演奏ということだろうか?そのあたりは、他の演奏を聞いていないのでよくわからない。ただ、もしかするとこの曲は、弛緩して退屈するか、あるいはエネルギー過多に陥って、無駄なシンチレーションを起こすか、どちらかになってしまうような気がする。ヤノフスキの演奏はそういうことがなく、これは職人的に大名演の類ではないかと思われた。

4人の独唱は総じてうまく、だれのどこがどうの、という印象ではない。またコンサートマスターの川崎洋介が起立して演奏した「ベネディクトゥス」の独奏部分には目を見張るような気分にさせられたし、最後の方でトランペットが太鼓とともに鳴るシーンも(ここでハッとする)、やはり実演で聞いていると大変印象的であった。

当然拍手は鳴りやまず、オーケストラが去った後でもカーテンコールが続いた。そしてそれが2回目に及ぶのは、やはり珍しいことだ。それほど聴衆は、この滅多に演奏されることのない大曲の類まれな名演に盛大な拍手を送った。

上野の春は桜が満開で、大勢の人で賑わっていた。そのまま帰るのは何となく惜しいので、桜の通りを不忍池方向まで下った。昼に降った雨もすっかり上がって快晴となっていた。傾きかけた太陽の光に照らされて、ピンクの花びらがいっそう輝くのを惜しむように眺めながら家路についた。

2025年4月3日木曜日

ブラームス:「ハイドンの主題による変奏曲」変ロ長調作品56a(クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団)

ブラームスの今一つの管弦楽作品「ハイドンの主題による変奏曲」は、ハイドンの作品を元にしたものではない。ハイドンの作品とされていた頃のディヴェルティメント第46番変ロ長調Hob.II.46の第2楽章を題材としている。この曲は「聖アントニウス」というタイトルが付けられているように、古い讃美歌の旋律が用いられている。もっともこの作品が疑作とされたのは最近のことのようで、手元にある「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂、1981年)にはハイドンの項に「6つの野外組曲」の第6番(1780年頃)として、「ブラームスが変奏曲の題材として用いた」と掲載されている。

ブラームスはこの変奏曲を、まず2台のピアノのための曲として制作した(作品56b)。その後管弦楽作品に編曲したが、実際には管弦楽作品としてよく知られている。主題と終曲に挟まれた8つの変奏曲から成り立っており、演奏時間は20分に満たない。しかし他の作品同様、なかなか味わい深い素敵な作品である。

クラシックのCDを毎月1枚と決めて買い求めていた学生の頃、ブラームスの交響曲第2番が聞きたくなった。私には珍しく当時新盤として発売されていたクリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団のCDを、どういうわけか買った。おそらくレコード屋に並んでいて目に留まったのだろう。レーベルはTeldecであった。その余白に「ハイドンの主題による変奏曲」が収録されていたことは、ほとんど気に留めなかった。

演奏は案外つまらないものだった。CDは月1枚しか買えないため、できるだけ自分にとっての名演奏を揃えたいと思っていたから、これはショックだった。新譜CDであるためそこそこの値段だったこともある。だが長い熟慮の末、もしかしたらと思い切って買う時には、賭けのような楽しさもあった。後年お金に余裕ができると、そのギャンプル傾向は拍車がかかった。ところがある日、交響曲ではなく「ハイドン」の方を聞いたみたところ、その演奏が何とも素晴らしいのである。地味だと思っていたドホナーニのブラームスが、その熱い演奏によって素晴らしく印象に残るものとなった。このCDは私にとって専ら「ハイドン」を聞くためのものとなった。

この曲の記事を書くにあたって、当然のことながらこの演奏にしようと決めていた。ところが、久しぶりに聞きなおそうと我がCDラックを漁ったところ、1000枚は下らないその中に見つからない。実家に置いてきたか、あるいは見切りをつけて中古屋に売ったか(CDとして所有する上での最大の問題点は、その収容スペースの確保である)、いずれにせよ聞くことができない。仕方がないから音質は劣るが、Spotifyで聞こうとした。ところが、どう検索してもこの曲がヒットしないのである。

Spotifyの音源を管理するデータベースは、おそらく一般的な関係データベースではない。若干専門的な話になるが、インターネットの検索エンジン同様、キーワードに対しもっともよく検索されるものを先に表示することを優先するグラフ型のデータベースを構築しているのではないか。このデータベースでは、検索条件に合致するものを正確にあまねく検索するわけではない。検索のスピードは向上するが、条件に合うすべてを結果表示するものではないことに留意する必要がある。まさに「芋づる式」であるが、全体がわからないのである。

ドホナーニの演奏では、最新のフィルハーモニア管弦楽団とのブラームスの録音は、かなり上位に表示される。この全集には「ハイドン変奏曲」は含まれていない。クリーヴランド時代の演奏は地味であまり売れなかったから、今や廃盤になって久しい。こういう演奏を検索するには工夫を必要とする。ところがどう検索しても現れないのだ。ある時私は意を決して、ドホナーニに演奏を表示される限り探っていったが、やはり出てこないのだ。

Spotifyでは聞くことができないのかも知れない。そう判断した私は、いっそ中古盤を買うか(といっても第2交響曲は不要だが)あるいはダウンロード購入ができないか、と考えた(いつものやり方だ)。このため普通のGoogle検索を試したところ、何とこの曲は「Cleveland Orchestra」というタイトルで配信専用のリリースがされていることが判明したのだ(Warner)。クリーヴランド管弦楽団はジョージ・セルの輝かしい時代に多くの演奏が残っているが、その古い録音を含む、いわばアーカイブとしてこの音源はリリースされている(2023年)。何とこの中に「ハイドン変奏曲」が含まれていることが判明した。そしてSpotifyで「Cleveland Orchestra」と検索したところ、たちどころにヒットした。幸運にしてこのように私は、数十年ぶりにドホナーニの「ハイドン変奏曲」にたどり着くことができたのだった。

私はこの曲を、まるで交響曲のように聞いている。主題と第1変奏までは第1楽章で、旋律が明確に示されて期待が高まる。そのあと第4変奏あたりまではゆったりと、伸びやかなメロディーが続く。いわば緩徐楽章である。第5変奏からはスケルツォとなり、中間部のような第7変奏を経て短い第8変奏に至る。終曲は長く、ここでコラールの主題が回帰しクライマックスを築くのである。ここは「パッサカリア」と呼ばれる形式で、ブラームスはあの交響曲第4番の第4楽章で、長大な「パッサカリア」を作曲していることを思い出す。

久しぶりに聞いたドホナーニの演奏は、剛直でキリっと引き締まった熱演である。他の演奏をあまり聞いていないから何とも言えないのだが、定評あるザンデルリンクでもどこか退屈であり、ジュリーニの演奏などは遅くて聞いていられない、というのが私の率直な感想。この2つの名演奏は大変評価が高いが(モントゥーも)、交響曲でも取り上げる機会がなかったので、ここで少し触れておいた。

2025年4月2日水曜日

サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調作品61(Vn:アンドリュー・ワン、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団)

3月に入って足踏みしていた春の陽気もようやく本番となり、東京では桜が満開である。このような時期にサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番第2楽章を聞いていたら、妻が何と今に相応しい春の音楽か、と言った。たしかに明るく朗らかな気持ちにさせてくれる曲である。第3番は3曲あるサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲の中でも、とりわけ有名で演奏機会も多い。1880年に完成し、サラサーテに献呈された。

私はCDを買わなくなって久しいが、長年Spotifyのプレミアム会員である。音質はCDに劣るものの、スマホを含め日常的に、膨大な数の音源を無制限に楽しむことができる。このサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲の場合も、定評ある歴史的演奏から最新の演奏まで、数えきれないくらいの録音が検索された。自分にとっての決定版がない曲では、さてどんな演奏が良いかは、この検索結果によって何を聞くかで決まる。Spotifyはどういうアルゴリズムになっているのかわからないが、視聴数の多い(つまりは人気がある)順に表示されるような気がしている。

かつては店頭でたまたま試聴するか、さもなければ事前に音楽評論家の文章を手掛かりに、購入するディスクを決めてレコード屋に赴いたものだが、今ではそれに代わって、もっとも良く聞かれている録音がたちどころにわかる塩梅である。その結果、意外な演奏や、決して試聴などしなかったであろう演奏、あるいは長年聞きたかった歴史的名演奏に出会うことが多くなった。そしてサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番に登場したのは、アンドリュー・ワンが独奏を務める全集だった(2015年)。伴奏はケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団である。

アンドリュー・ワンというヴァイオリニストを、私は知らなかった。調べてみると、彼はカナダ人でモントリオール交響楽団のコンサート・マスターであることがわかった。ナガノは長年音楽監督を務めていたから、その頃の録音ということになる。モントリオール交響楽団はシャルル・デュトワが世界一流のオーケストラに育てたことで、とりわけフランス音楽に定評があった。だからサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲にもうってつけ、というわけである。

その演奏は現代風のきれいな音色に、きちっと楷書風の伴奏が付いて録音もいい。もともとフランチェスカッティやシェリングといった旧い演奏家が、個性的な演奏を聞かせる名曲だった。パールマンは80年代、新しい演奏に思えたし、その魅力は今でも新鮮だが、このディスクの欠点はバレンボイムの指揮するパリ管弦楽団で、何かもやのかかった中途半端なものに聞こえる。ヴァイオリンが風味満載でもオーケストラがいかにも凡庸、ということはよくあることで、この曲もそういう演奏が多い。

一アマチュアがどうこの曲を聞こうと、それは勝手で自由なので、私はいつもこの曲に北アフリカの風景を重ね合わせている。第1楽章の冒頭は、チョン・キョンファで聞くとアリランのように聞こえるが、そういう異国を思わせるような情緒があるように思う。これは偶然ではないだろう。なぜならサン=サーンスはしばしばアルジェリアに避寒し、無類の旅行好きとして知られているからだ。ピアノ協奏曲に「エジプト風」というのもあるくらいである。

その第3協奏曲の最大の聞き所は、何と言っても長い第2楽章であろう。過ぎ行く夏を惜しむようなメロディーは(妻は春の曲だと言ったが)、誰もが口ずさみたくなりような曲だ。木管と絡みながら、何度もこのメロディー繰り返されるのを聞いているうちにうっとりとする。サン=サーンスを聞く時、このような魔法のメロディーにしばしば遭遇する。

しばし時の流れるのも忘れるような気分が、決然としたカデンツァによって打ち消されると第3楽章である。この楽章は長い。ヴァイオリンの特性を生かした、また一つの素敵な協奏曲だと思う。明るく伸びやかなメロディーがロンド風に変奏されてゆくのを聞くと、幸せな気分になること請け合いである。そしてワンとナガノによえう演奏は、じっくりと細部にも気を配りながら、きっちりと演奏している。ヴァイオリンの個性や技巧に驚くようなところはないが、そうでない方法で、音楽としての魅力を伝えることに成功している。それがこのライブ録音の魅力である。

第2039回NHK交響楽団定期公演(2025年6月8日NHKホール、フアンホ・メナ指揮)

背筋がゾクゾクとする演奏だった。2010年の第16回ショパン国際ピアノコンクールの覇者、ユリアンナ・アヴデーエワがラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の有名な第18変奏を弾き始めた時、それはさりげなく、さらりと、しかしスーパーなテクニックを持ってこのメロディーが流れてき...