このコンサートの後で私はしばらくの間、音楽を聞きたくなくたった。年数回程度しかコンサートに行かない私にとって、これ以上の水準の演奏に出会うことはもうほとんどないだろう。そう思うと虚無感に襲われた。物事を達成した時の虚脱感。目的地に到達したときに味わう少し淋しい気持ち。私はここに書く文章がなかなか見当たらない。もっと立派な表現でこのコンサート、特に最後の「白鳥の湖」(抜粋)で味わうことのできたオーケストラの最高に美しい演奏というものについて語りたいと考えた。だがそれは、どんな言葉をもってしてもうまく語れない。悔しいことに私の文章力では、そう言うほかない。
トゥガン・ソヒエフが1月のN響定期に客演し、「白鳥の湖」を組曲ではなく自ら抜粋した内容で演奏するとわかったとき、私は間違いなくいい演奏になると確信した。だからサントリー・ホールで行われる2回の定期公演のチケットがすでに売り切れであることを知ったときには、とても残念な気持ちだった。だが会場の前で束にして配布されるコンサートのチラシの塊の中に、同じプログラムが場所を変えて行われることを知ったときは、この上なく嬉しかった。しかもラッ
キーなことに1週間前でもチケットが残っていたのだ。
横浜みなとみらいホールで土曜日の午後に行われるコンサートには、誕生日が近い妻を誘うことにした。そしてまだ9歳の息子を家に置いていくわけにもいかず、とうとう彼の分まで席を買い求めた。息子はバイオリンを習っており、クラシック音楽の
コンサートにはいずれ連れて行こうと思っていたが、実は彼は小学校から芸術鑑賞会という授業でサントリー・ホールに出かけ、都響のドビュッシーを聞いているのだ。
それからの数日間は、まるで遠足を楽しみしている小学生のように、私自身がそわそわとしはじめ、その間の興奮ぶりは自分でもおかしいと思ったほどだ。どうしてだろうか。ソヒエフという指揮者は一度だけテレビで見たことがあるだけだったが(それもN響の定期だった)、私はその瞬間に雷を打たれたように直感した。いい指揮者、少なくともN響とは相性のいい指揮者だと思たのだ。だから再び彼がN響に登場し、それもオール・ロシア・プログラムをやる、となれば悪かろうはずがない。この間にトゥールーズのオーケストラだけでなく、ベルリン・
ドイツ交響楽団のシェフ、そしてとうとうボリショイ劇場の音楽監督に就任しているのだ。
「白鳥の湖」。このチャイコ
フスキー最大の名曲(だと私は思う)ほど、オーケストラの音楽を聞く喜びを味わわせてくれるものはないとさえ思う。それも組曲ではなく、全曲からの抜粋である。ワルツやマズルカをはじめ様々なメロディーやリズムが次から次へと続く。憂愁を帯びたオーボエの響きはロシアの大地を思わせる。私はバレエこそ見たことはないが、この音楽が大好きであることは先日書いた。いやバ
レエなしで純粋に音楽だけでも楽しめるのが、チャイコフスキーのバレエ音楽の素晴らしいところだ。そしてこの曲は「くるみ割り人形」よりも「眠りの森の美女」よりもいい曲だと思う。
ソヒエフの指揮する「白鳥の湖」は、一糸乱れぬアンサンブルが豊饒な響きを伴って満開と
なり、しかも指揮の動きに同化して揺れ動く。その様は、まさにオーケストラがひとつの大きな楽器であるかのようだった。こういう瞬間に出会うことはたまにある。だが曲全体にわたって続くことはめったにない。しかもN響の技術水準はいまや世界の主要オーケストラに肩を並べる水準であることに疑いはない。だから今回の演奏会は名実ともに最高レベルの演奏会だった。
その素晴らしさは休憩前のプログラム、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でも随所に見られた。特に第2楽章の後半!けれども私はこの演奏をとても残念に思う。それは独奏のルーカス・ゲニューシャスにある。思うに彼のピアノは、ラフマニノフの華麗で豪華な音楽にやや不向きである。線が細くて主張に乏しく、かといって表現が精緻を極めるわけでもな
い。不向きでないなら、妻による分析が正しいだろう。つまり技術的な問題か、さもなくば練習不足だからだ。この演奏は伴奏のオーケストラがいいだけにとても勿体ない演奏に思えた。
コンサートはグリンカの歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲で幕を開けた。快速で飛ばす演奏の最
初から、この演奏会がとても期待の持てるものになることを容易に予測させた。ふと私はとなりでだまって座っている息子のことが気になった。私はクラ
シック音楽しか聞かない珍しい少年で、そのまま大人になるまでほかの音楽をほとんど知らなかったし、それでも十分に満足した音楽生活を送ってきた非常に珍しい人間である。けれどもそのような奇特な人は世界にそう多くいるわけではない。例えばとなりの息子もまた普通の少年であろう。彼にしてみれば数多くある様々な音楽の中で、よりによってどういう理由で100年以上も前に書かれたロシア音楽を聞かなくてはならないのだろうか、と疑問に思うに違いない。
「これこそが人類の遺産、世界最高の音楽」などと説教をしたところで、それが説得力を持つようには思えない。私に対してそうであったからと言って、彼にとってクラシックが最高の音楽であるとは思えないのだ。レパートリーのマンネリ化によって、クラシック音楽は危機にあるとブーレーズは言った。おそらく100人中99人は、現在のポピュラー音楽にこそ楽しみを見出すだろう。ロックのリズム、ジャズの即興性、バラードの等身大的な感銘は、クラシック音楽からも見出せないわけではない。だがより直接的な訴えは、大衆性や同時代性と隣り合わせである。
クラシック音楽の敷居の高さというものがある。そしてどれほど高水準で演奏されても、それをはじめて聞くような人にとっては「この程度なの?」と思われはしないか。ソヒエフの演奏する「ルスランとリュドミーラ」
は唖然とするような素晴らしい演奏だった。だがそう感じるのはそれまで、何百もの演奏に接してきた経験を経たからこそそう思うのであって、もし初めてクラシックを聞いた人がいれば、それが身近に聞く洋楽やJ-POPのような曲ほどに共感をもって親しめるようには感じられないとしても、まったくもって不思議ではない。
今回の演奏会は私の個人的な経験上、何本かの指にはいるような高水準かつ感動的なコンサートだった。同じ思いを持ったクラシック・ファンも多いだろう。だがそれと同時に、クラシック音楽の限界を感じざるを得なかった。これほどポピュラーとされる音楽でも、一定の水準で演奏されてはじめて表現されるオーケストラ演奏が、そうではないものと違うのだと理解するのは、実はそう簡単なことではない。
だがこういうことはある。たまたま聞いた何かの音楽が、彼の人生を変えるほどの経験となることがあり得るということだ。だから私はこのように考えるしかない。それはたった今、すぐ隣に存在するのかも知れない、と。だからいつも、その隣の扉を開けてあげよう努力しているのだ、と。
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