
別に避けてきたわけではないが、ブログでブラームスの作品を取り上げるのはまだ2度目であり、このほかに4つの交響曲や2つのピアノ協奏曲など、ブラームスについて語るべきことは多い。このヴァイオリン協奏曲の場合も、初めて聞いたクレーメルとバーンスタインの競演盤、世に歴史的演奏と名高いヌヴー盤(モノラル)などがあり、これらの演奏を含めどの演奏がどうの、などと書かれたブログは枚挙に暇がない。そういう作品であればあるほど、記述は慎重にしなければならない。ムター盤が最高、などと書けば、単に初心者のコメントと受け取られかねない。実際、こういうブログを書く面々とは違い、私のこの曲へのこだわりはさほどあるわけではなく、実演で聞いたこともない!
ただこの曲は、まるでブルックナーを思わせる序奏の最初から、一気にはちきれんばかりに終わる最後の一音まで、一切の無駄がないほどに音符が磨かれた名曲だと思う。何度聞いたか知れないが、ほとんど旋律を歌うこともできるのは、ヴァイオリン協奏曲多しといえどもベートーヴェンとブラームスくらいであろう。 ヴァイオリン協奏曲の最高峰と言っていいかも知れない。
そんな曲を音楽の専門家でもない人間が語るのは畏れ多いのだが、45歳という人生におけるもっとも充実した時期(これは交響曲で言えば第2番の時期に当たる)に相当する年齢に、この作品は作曲された。作曲に関するいきさつは数多くあるが、ロマン派も後期になると、かの名曲を誰それが演奏して感銘を受けた、などというのが作曲の動機であるとの記述が残されていたりして、音楽自体がどうも先入観によって語られる傾向が強い。例えばこの曲の場合、ブルッフやベートーヴェンが登場し、ヴァイオリニストとしてはサラサーテとヨアフムが登場する。
ヨアヒムはクライスラーと並んで良く演奏されるカデンツァを作曲しており、初演も行った名手だが、このムターの演奏でもヨアヒムのカデンツァがオーソドックスに使用されている。長大な第1楽章が終わる直前の、カデンツァからコーダへの移行部分が私はもっとも好きである。この部分の名曲としてはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲があるが、この作品はまさにそのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と同じ1878年に作曲されている。チャイコフスキーはこの曲を「詩情に欠ける」と批判しているが、そういうあたりは対抗心がむき出しである。ブラームスほどそういった諍いのエピソードが多い作曲家である。二人ともイタリア旅行から帰国してヴァイオリン協奏曲を書いたという共通点も面白い。
春の野を行くような陽気な音楽だと思ったのは、クレーメルの演奏(バーンスタイン盤)で第2楽章を聞いた時だった。だがこの演奏がむしろ風変わりなのだろう。オーボエのソロが長々と続く、まるでオーボエ協奏曲ではないかと思うようなところがこの第2楽章にはある。カラヤンの演奏で聞くブラームスには、安定したドイツの響きが宿り、かといって古色蒼然とはならない。オーケストラの音に磨きがかかり、その濁りのない音色と切れのいいリズムは今聞いてもモダンでさえある。
第3楽章のリズムが重いと思う人がいるかもしれない。だがカラヤンの演奏は決してもたれないと思う。ムターはそのカラヤンに寄り添っていながらも、大胆不敵に組み合っている。重厚なブラームスが、特に洗練されたメロディーとして演奏されるのはカラヤンの特徴であり、私はそれが好きである。交響曲第1番もしかりである。
ドイツ魂とは若干異なるが、若々しさを一心不乱にぶつけ、荒ぶる情念を表出した演奏がフランス人ジャネット・ヌヴーによる演奏だった。ここでは競演するシュミット=イッセルシュテットを煽り、 時にオーケストラ(北ドイツ放送交響楽団)がついて行けないほどの白熱したライブとなっている。一方最近のヴァイオリニストの演奏は、すっきり綺麗に仕上げられ、オーケストラの編成もどちらかというと小規模なものであることが多い。対照的な二つの時代の中間に、ムター=カラヤンの時代がある。
どの頃の演奏がいいと言うことはしない。ただヌヴーのような一世一代の演奏は、何回も聞くと疲れるし、最近のスッキリ系の演奏は、この長い曲には退屈である。結局、すべとぉ聞いたわけではないが、私の場合、この曲はカラヤンとのムター盤に落ち着く。そうだった!パールマンがジュリーニと共演した演奏もあったのを思い出した!この演奏はあまり取り上げられているのを見たことがないが、私のお気に入りの演奏である。オーケストラはシカゴ響だったか。
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