2017年3月11日土曜日

モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299(Fl:エマニュエル・パユ、Harp:マリー=ピエール・ラングラメ、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

クラシック音楽には、誰の演奏で聞いてもいい曲というのがあって、ベートーヴェンの「田園交響曲」などはその最たる例だと思うのだが、モーツァルトの「フルートハープのための協奏曲」もまたそういう作品である。どんな演奏で聞いてもいい曲だなあと感心する。それはとどのつまりは、作品がいいと言うことに尽きる。演奏の違いをものともしないのである。

私の「フルートハープ」の体験も、協奏交響曲の時に述べたカラヤン盤(フルート:ジェームズ・ゴールウェイ、ハープ:フリッツ・ヘルミス)により始まった。この演奏はゆっくりとしたテンポで、最初はしまりのない演奏だなと思っていたが、聞き始めると曲の美しさに聞き惚れてしまう、魔法のような演奏である。

この曲を聞くと私は、春の真っただ中、桜の木の下で野点でもしているような気分になる。もしかしたらハープが琴の音のように聞こえ、フルートのメロディーが桜の花びらがひらひらと舞い落ちる光景を思い起こすのだろう。けれどもこの花見は、上野公園のような雑踏のシーンではない。かの有名なパイヤール盤(フルート:ジャン=ピエール・ランパル、ハープ:リリー・ラスキーヌ)で聞くときは、奈良の春日大社あたりの、幾分か優雅な風情を思い浮かべる。特に第2楽章後半の、独奏が主体の部分などは絶品で、音楽というのはとにかくこういう風に演奏すべきなのだ、という説得力と安心感が体を覆う。

速い演奏で聞くのもいい。そもそもこの曲はハープなど相当体力がいる曲だと思うのだが、それを弾きこなすのは大変なことだ。あくまでエレガントに弾きこなさなくてはならないので、どうしても音楽が小さくなる。音量も少ないのでオーケストラに埋もれてしまう。録音ではこれを補うべく、マイクを楽器に近づけて収録したりするが、そうするとオーケストラの音色との交わりが不自然になる。パイヤールの演奏もそういう傾向がなきにしもあらずだが、アナログ時代のレンジの広い録音で、品が悪くはない。

「典雅」という形容詞がピッタリのこの曲は、珍しいフルートとハープという組み合わせの協奏曲で、後世の有名作曲家にはないものである。しかもこれだけ有名な作品でありながら、実演に接する機会は多くない。自然、録音された数種類の演奏でこの曲の真価を知ることになる。私の場合、意外な出会いだったのは、アーノンクール盤が発売されたときだった。フルートはローベルト・ヴォルフ、ハープは吉野直子である。

この演奏はアーノンクール節ともいうべきエッジの聞いた音作りで聞くものの集中を取り付け、古楽器奏法を生かしながら時に旋律は通常とはちょっと違うフレーズが見え隠れする。引き締まっているかと思えば、意外なところで軽く流れたり、アクセントを強調したりする。スピードは全体を通して遅い。そしてこの曲の第2楽章を聞くと、まるで里山にひっそり咲く見事な桜の早朝の光景・・・と思うか、朝もやの中に浮かび上がるシチリア島の農村風景を思い浮かべるか、それは人それぞれだと思うが、いずれにしても静かなたたずまいの中に、そこだけ時間が静止したような美しさが感じられる。

今の私のお気に入りは1996年に録音されたエマニュエル・パユによる演奏。今となっては20年が経過し、とても新しい演奏とは言えないが、それ以前の演奏に比べると新鮮で新しい。アバドの振るオーケストラが見事で、主張しすぎず、かといって安易なものでもない。このCDには、フルート協奏曲の第1番と第2番も収録されており、清々しい気分にさせられるトップクラスの名演である。聞いていてほれぼれするような演奏が、また増えてしまった。だがその魅力の半分以上は、曲自体にあると思う。3回に及ぶパリ旅行はモーツァルトの作品に、幼少のザルツブルク時代にはない優美さを与える結果となった。

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