これに対しグノーの作曲した「ロメオとジュリエット」は、シェークスピアの戯曲を題材とした若者の恋愛と悲劇を描いたものであり、オペラの題材としてはこれ以上もないほどの要素をすでに持ち合わせているにもかかわらず、見るときの気持ちは常にどことなく居心地が悪いような気分にさせられるのはなぜだろう?
こう書くと、音楽を語る資格のない者が大作曲家に対して失礼であると思われるかも知れない。グノーは19世紀中頃のフランスの大作曲家であり、同作品を題材にしたオペラは30作品以上あると言われている中にあって、実にこの作品だけが音楽史に名を残し、「殿堂入りを果たした」(ライブ・ビューイングにおける紹介)のは事実であり、その音楽には様々な手法が駆使され、美しいメロディーに溢れた大作であることには変わりはない。だがものとの作品の持つ悲劇としての美しさを知っていればなお、全編愛の二重唱に覆われた本オペラが、そのテーマとすべき深い部分に肉薄しているのか、あるいは違う箇所にスッポトライトを当てることで、原作にはない別の文学的テーマを示し得ているのか、といえばそう思われない。その点、グノーの代表作「ファウスト」ほどではない、と認めざるを得ないのではないか。
いちオペラファンの下世話な思い付きだが、この作品をヴェルディが作曲していたらどんな作品になっていただろうと思う。もちろん台本作家というのも重要な要素だ。だがヴェルディなら、おそらく愛の二重唱は第2幕のバルコニーのシーンに焦点化されて光彩を放ち、このまま両家の対立を忍んでも結婚をすべきかという心の葛藤を描き切っただろうと想像するに難くない。加えてヴェルディ生涯の隠れたモチーフである父親と娘の対立と和解も、第3幕あたりに巧妙に差しはさまれるだろうし、終幕の死別のシーンでは、原作を曲げてまでジュリエット(麻酔によって眠っている)とロメオ(ジュリエットが死んだと思い服毒自殺する)の二重唱はもはや不要であり、むしろ死んだロミオの前にして自らも命を絶つというヒロインをこれでもか、これでもか、と表現したに違いない。
歌劇「ロメオとジュリエット」は大衆小説が芸術にまで昇華した「椿姫」とは対照的に、文豪の作品を題材とした大衆的オペラである。そうと割り切ってみる分には、音楽的な技巧も満載であるうえに、二人の独唱と二重唱がふんだんに登場する親しみやすい作品であると言える。特にこのたびの上演で見たディアナ・ダムラウ(ジュリエット)とヴィットリオ・グリゴーロ(ロメオ)という二人のカップルは、現在望みうる最高のカップルではないだろうか。おそらく二人とも絶好調であったと思う。特にグリゴーロは自らも満足できる出来栄えであったように感じられた。二人は登場する時から最後まで圧倒的な存在感で広い空間を満たした。脇役である小姓ステファーノ(メゾ・ソプラノのヴェルジー・ヴェレーズ)やローラン神父(バズのミハイル・ペトレンコ)の歌唱も光った。
ヴェローナの街(1990) |
指揮のジャナンドレア・ノセダはこの作品を終始緊張感のあるものにし、作品を成功に導いた。その手腕は最高に評価されて良く、ノセダはMETの新監督となるヤニック・ネゼ=セガンやフィリップ・ジョルダンと並んで、今やオペラ界の代表的指揮者だろうと思う。結果的に今回の「ロメオ」は、息のぴったりと合った圧倒的な歌唱と指揮、それに舞台の見事さによって、原作の持つ魅力を十二分に表現したものとなり、ここまでくれば見ごたえは十分、そして見終わった後は「オペラを見た!」という満足感に満たされるものだった。「ロメオ」の望みうる最高の舞台、であるかどうかは経験がないので簡単には評価できないものの、おそらくそうではないか、と思わせるに十分であったことだけは確かである。
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