2017年3月8日水曜日

モーツァルト:ファゴット協奏曲変ロ長調K191(Fg:ミラン・トゥルコヴィッチ、ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)

バスーン、あるいはドイツ語でファゴットなどという低音の楽器のための協奏曲は、これ以外に知らない。オーケストラの曲におけるファゴットは、いつも何かのメロディーを後で支える役割で、特に有名な旋律というとストラヴィンスキーの「春の祭典」冒頭部分の、恐ろしく難解とされる旋律くらいしか思い浮かばない。もしかしたら最も目立たない楽器なのではないかとさえ思える。

N響の首席オーボエ奏者である茂木大輔氏が書いた「オーケストラ楽器別人間学」という、漫談のような本によるとファゴット奏者は「森にかこまれて育った純朴青年」で、「どことなく抜けたところのある、ユーモラスな、愛すべき」人間性を持っていると言い、「物悲しく、か弱い高音はペーソスを、柔らかく深い中音は温かみを、しわがれた低音は内省的な性格」を与えていると言う。確かにそういうイメージはある。

私は楽器やオーケストラの人間関係には疎いが、ファゴットは極めて広い音域をもつ楽器であることは知っておくべきだろう。その広い音域を駆使するのが「春の祭典」だそうだが、モーツァルトの「ファゴット協奏曲」もまたファゴットのためだけに書かれた。まだザルツブルクにいた頃のモーツァルトが18歳の時の作品である。

K191という若い番号が私の興味を掻き立てたのは、当時の我が家にK300番台以降の作品のレコードは数多くあったが、それ以下となるとこの曲を除けば「フルートとハープのための協奏曲」K299がわずかに300番を下回る以外はほとんど存在しなかったからだ 。その演奏はカール・ベームが指揮しウィーン・フィルの木管奏者と競演した一連の作品集のLPの「余白」に収められていた。いろいろな楽器の協奏曲がある中で、ファゴットもまた協奏曲になるのか、と思った。だがこの他の作曲家でファゴット協奏曲を書いた作曲家を私は知らない(Webで調べればすぐに見つかるが)。

モーツァルトが作曲した管楽器のための協奏曲は、クラリネットが最晩年に作曲された以外は、ほとんどパリ旅行やマンハイム時代に集中している。けれどもファゴット協奏曲だけはそれ以前のザルツブルク時代の作品というわけである。しかし子供じみた若作りの作品かと言えば、そうではない。若い頃のモーツァルト作品をアーノンクールの指揮で聞くとき、もはや晩年の曲を聞くかのような深みを感じるから不思議である。 ここで独奏はオーストリアの世界的ファゴット奏者ミラン・トゥルコヴィッチという人である。

第1楽章から新鮮な音色が魅了し、第2楽章の静かでほのぼのとした味わいも良いが、第3楽章はめずらしく3拍子のメヌエットで、しかもロンド風の変奏が味わえる。短いがファゴットの音色をいっぱい楽しめる。この演奏は古楽器奏法でのものだが、モダン楽器であれば先に述べたベーム盤も素晴らしい。

ファゴットの音色は空腹時のお腹の鳴る音、あるいは放屁を思わせる。もし父親の「おもちゃの交響曲」のように、「おならの協奏曲(ヘ長調)」などという曲があれば、間違いなくファゴットが活躍するであろうと言うような下品なことは、茂木大輔氏と言えども書いていない。だが、これは一面あり得る話である。というのもモーツァルトの残した家族への手紙には、糞尿に関するものが頻出するからだ。他に3曲ものファゴット協奏曲を作曲していると言われてもいる。もしかしたら誰も知らないところで、彼はそんな冗談の作品を残していたり・・・などと言うのもまた空想である。

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