
モーツァルトは多くの管弦楽のための協奏曲を作曲しているが、その理由は協奏曲の作曲依頼があったからだ。オーボエの場合、ザルツブルクの宮廷楽団の奏者のためとされているが、初演の際のことなど詳しいことはよくわからない。今この曲を検索すれば、YouTubeなどで数多くの映像を見ることができる。多くのシーンではオーボエ奏者が指揮台に立ち、自ら楽団を指揮しながら独奏を務めている。
オーボエという楽器は、オーケストラがチューニングをする際に吹き出す最初の音を奏でる楽器であり、その位置は指揮者の正面と決まっている。他の楽器は様々な位置に配置されることが多いので、オーケストラの中で不動の位置を占めるのは、第1コンサートマスターと第1オーボエ奏者くらいではないかと思う。
オーボエのメランコリックな音色は、大きな楽曲の中でしばしば効果的なソロとして使われる。長大な賑やかな曲も、時に内省的に、あるいは懐古的にオーボエのソロが登場する。この音色でなければそういう雰囲気を醸し出すことは難しいのだろうか。そしてやや神経質で真面目な楽器という印象がある。オーボエの音を常に良い状態に保つには、楽器の手入れを含む多大な努力が欠かせないらしい。
モーツァルトのオーボエ協奏曲は、協奏曲であるから常に独奏のパートを吹き続ける。この音色は常に聞かされるとちょっと嫌な気分がしてくる、と私が正直に書くと、それはいい演奏で聞いていないからだと言われるかも知れない。その傾向もないわけではない。多くのオーボエ協奏曲の演奏があるとは思うが、私の手元にあるのはアーノンクールが録音した一連の管楽器のための協奏曲集(他はフルートとハープ、クラリネット)に収められたものだけである。けれどもここに聞くオーボエ協奏曲は、他のいくつもの演奏を凌いでユニークであり、そして楽しい。
第1楽章の冒頭、聞きなれたフレーズがアーノンクール節で始まると、何と新鮮に聞こえることか。颯爽とした演奏もいいが、このように一歩一歩足を踏み込むような、それでいて軽やかさを失わない演奏もまた病みつきになる。特に音が揺れて、まるでそよ風が吹いたかと思うと一時たゆたい、そしてまた大きく吹き流れて行くような感覚になる部分が何度かある。絶妙な呼吸感、そしてオーボエが上下に 行ったり来たり、スイスあたりのヨーロッパの田舎を雨上がりに楽隊が通り過ぎるようなイメージが、私の場合いつもするのである。
第2楽章の透明な響きと長い呼吸を伴うフレーズは、静寂と明るさが同居している不思議な空間。クラリネット協奏曲が深夜の音楽だとすると、早朝の音楽である。そして第3楽章はおどけたようなユーモアが溢れている。アーノンクールの演奏はリズムの強弱を強調するかと思うと、流れるような部分があったりして、その諧謔的な妙味は聞いたことがないとわかりにくい。結局私はこの演奏で聞くオーボエ協奏曲が好きであり、それ以外の演奏は今のところ、平凡なものに聞こえてしまっている。
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