2018年12月28日金曜日

NHK交響楽団「第九」演奏会(2018年12月24日、NHKホール)

記録によれば、今回のNHK交響楽団による年末恒例、ベートーヴェンの「第九」演奏会は私にとって生涯で通算300回目となるコンサートである。第200回目は2007年11月、バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリンをサントリーホールで、第100回目は1995年10月、カーネギーホールでマゼール指揮ピッツバーグ交響楽団を聞いている。初めてのコンサートは1981年だから、39年間に300回のコンサートに出かけたことになり、平均すると1年に7.7回のペースということになる。

初めてオーケストラを生で聞いたのは、小学校の低学年の頃で、学校の体育館にやって来た京都市交響楽団だったかの出前演奏だったし、テレビ番組「オーケストラがやって来た」の公開収録に出かけたりしたこともあったが、自分のお金で聞いたコンサートとしては、1981年12月30日が最初であった。会場は大阪フェスティバル・ホール。演奏は朝比奈隆指揮大阪フィル。演目はベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調「合唱付き」。コンサートの始めにはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲が、コンサートの終わりには恒例の「蛍の光」が合唱のみで演奏された、とメモにある。

ちょっと脱線すると、朝比奈隆と言えば現在でも我が国で最も聞かれている指揮者で、今日も年が押しせまった新宿のタワーレコードに出かけたところ、朝比奈の「第九」がクラシック売り場に高らかと鳴り響いていた。朝比奈の音楽は、晩年神がかり的な存在となったが、当時はまだローカルの演奏会で、たかだか3000円くらいの席は中学生だった私にも手が出せた。その演奏は、第3楽章までが何かプカプカとやっていたが、第4楽章の合唱が入って来るところからは入念な響きが会場を見たし、コーダだけは極めて印象深いというものだった。待ち構えたように間髪を入れずにブラボーと叫んだ2階席最終列の学生の数人が、私のとなりにいたのを良く覚えている。

年末になると日本中で「第九」が取り上げられるようになったのは、ボーナスを団員に支給するために、客の入りがいい作品(には「運命」や「新世界より」なども含まれる)をぶつけたという説が説得力がある。この変な習慣も最近では欧米にまで逆輸入されているらしい。そして我が国では、スーパーマーケットの歳末セールにもポップス調にアレンジされて購買欲を煽り、一時期は日本中のおばちゃんやおじさんが、にわか仕込みのドイツ語で競うように歌ったようだが、そんな「流行」も最近は下火となった感がある。N響の「第九」も今年は全部で5回開かれるが、今年は当日券も残っていたし、それにFMとTVで1回ずつ放送されるだけ、というのはちょっと寂しい。

私は過去にN響の「第九」を数回聞いているが、もっとも最近聞いたのはもう1998年のことである。丁度20年も前のことになる。いつも思うのは、「第九」だけはいつもと違う客層となり、特に第3楽章あたりではなんとなくざわざわしているような感じがして、どうも好きになれなかった。それで最近は少し遠ざかっていたというのが本当のところである。けれどもN響の実力は向上しているし、団員も大きく入れ替わった。最近は指揮者が良いということに加え、いつからか合唱が、力任せの国立音楽大学ではなく、東京オペラシンガーズというプロに変わっているではないか。この曲を聞くべきタイミングとして、今年こそ相応しいと思われてきた。

思えば今年は私にとって節目の年であった。仕事でも家庭でも、そして個人的にも、大きくはないが重要な一区切りを迎えた。今年を漢字で表すと「安堵」、やっと一安心といったところであった。丁度そのような思いに浸っていた時、弟からお誘いのメールが来た。さっそく妻を誘って出かけることになり、カップルや家族連れでごった返すクリスマス前の渋谷を抜けてNHKホールに着いた。3階席ではあるが両翼の少し低くなったところ。ここで聞くN響は悪くはない。プログラムは「第九」ただ1曲のみと、ちょっと寂しいが、最近ではそういうプログラムが多い。

今年の指揮者はもう80代のマレク・ヤノフスキである。ヤノフスキと言えば、4年がかりで聞いた楽劇「ニーベルンクの指環」(演奏会形式)が記憶に新しい。毎年春、桜の咲くころに上野で聞いた一連のコンサートは、毎回とんでもないくらいの感銘を私に与えた。もちろんソリストが素晴らしかったのは言うまでもないが、それを支えたのがヤノフスキの指揮するN響だった。ヤノフスキの「指環」。それは2組の全曲盤CDでも聞くことができる。非常に抑制の聞いた音量と比較的速いテンポで、どちらかというとあっさりした演奏である。ワーグナーだからといって、ロマンチックな豊穣さを期待すると裏切られる。物足りない、と感じる人は多いだろう。けれども私はこういうスッキリした演奏が嫌いではない。酔わないが、醒めているわけではない。そつなくまとめているように聞こえるが、よく考えられている。音量をぐっと抑えて、普段は聞き取ることのできない楽器の対話が、綺麗に聞こえてくるような時があり、それはちょっとした興奮を覚える。プロフェッショナルな指揮者だと思う。

そんなヤノフスキのベートーヴェンは、私にとって実にこれが初めてである。彼はブックレットの中で、「第九」のもっとも重要な部分について興味深く語っている。それによれば、最も重要な音は第3楽章の第23小節の最後の和音だという。ここは「4/4拍子で変ロ長調、ヘ長調の和音が急な転調でニ長調に移行する部分」で「とてもさりげなく、素早く過ぎていく」のだが、「感情の最も崇高な領域」であり「きわめて非凡な『神』を感じさせるような」部分だと。ここはむしろ3/4拍子に変わる直前と言った方がわかりやすいかも知れない。

この解説を家に持ち帰って読みながら、再確認したみたいと思った。当日の演奏会の第3楽章は、それはもう素晴らしく、この曲の天国的な美しさを堪能したのだが、かといってこの細かい部分まで記憶しているわけではない。そこでまず、スコアをダウンロードし(最近は無料でスコアが手に入る。私が使ったのはhttp://www.free-scores.com/というサイトである)、手元にあったリッカルド・ムーティの指揮する全集の中の一枚(演奏はフィラデルフィア管弦楽団)を聞いてみた。

この第3楽章の前半は、4拍子と3拍子を交互に繰り返しながら進んでいく。世離れしたきれいなメロディーに、細かい音符のことなどどうでもよくなっていく。音楽的構造を逐一考えるような野暮な聞き方ではなく、曲に身を委ね、時に目を閉じたくなるような曲である。だがこのたび私は、幾度も最初からこの曲のスコアを追ってみた。最初の主題は、弦楽器と木管が交互に会話する様が面白いのだが、第1楽章、第2楽章と進んできた「第九」もここへ来てぐっと内省的な気分となる部分への、ほんのちょっとした移行の気分。駆け抜けて来た怒涛のような時間を離れ、回顧するかのような時間となるまでの、ほんのわずかな時間。とても長く、とても深い時間が始まる。

だが弦と木管のやりとりが一時揺蕩うようになり、方向感を失うが如き趣きがしばし訪れる。はっきり意識もしないうちに、ピタリと何かに触れたような瞬間。完全な調和を見せる和音がわずかに1回だけ、鳴り響く。ブルックナーの曲にありそうな瞬間。それがこの和音である。時間としては丁度3分00秒の直前(ムーティの場合)。そしてそれを境に、一気に方向感を得て流れてゆく二つ目の主題は、何と第2ヴァイオリンとヴィオラによって奏でられる(スコアを見ると第1ヴァイオリンは休止状態)。そのメロディー部分は、ヤノフスキの演奏でも極めて印象的であった。

N響の中音域を担う見事なヴィオラとチェロが、まさに雄弁にこの第3楽章を形成している。そうか、あのマーラーがよく求めた音楽が、もしかしたらこのあたりに源流を持つのかも知れない、などと考えた。この演奏は大晦日の教育テレビで放送される。もう一度聞けるのが今から楽しみである。

第4楽章になってもヤノフスキの演奏はバカ騒ぎにはならない。音を大きくしないので、3階席で聞いているとちょっと物足りないと思う客が多かったのではと思う。けれども私はフーガからコーダに至るまでのそれぞれの部分で、これまでにきいたことのないような響きを経験することとなる。木管楽器と合唱が見事に調和して、押さえられた弦楽器の中に浮かび上がる、といったような瞬間が何度もあった。後半の美しい合唱部分が極めて精緻で、それはこの合唱団(東京オペラシンガーズ)と4人のソリスト(藤原佳奈枝、加納悦子、ロバート・ディーン・スミス、アルベルト・ドーメン)によるところも大きい。

室内楽的な緻密さを持つ「第九」の演奏は、まさに音楽の小宇宙で、聞きなれた曲にもまた新しい発見があったことを嬉しく思った。たった1時間余りの演奏会が終わって、公園通りを渋谷へ向かうとき、その流れに逆行した人の波にのまれそうになった。12月になって始まった代々木公園のライトアップを見る人たちであろう。「第九」と日本の年の瀬の表情は、やはりどこかでマッチしているように感じる。思えばこの曲は、異例中の異例である。後にも先にも「第九」に似た作品などない。「おお友よ、このような響きではなく・・・」と高らかに歌われる時、そこにはあらゆるものを超越したものの存在が意識される。だから、もうどうなってもいいのよ、この曲は・・・という演奏もまた正しいだろう。ヤノフスキの演奏は、それとはちょっと異なっている。だが、「第九」はどう演奏しても「第九」である。どういう道をたどるにせよ、結局そこに「神」の存在を見出すのだから。

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