
ハイドンのチェロ協奏曲第1番は、バロックの趣きを残していると言われている。作曲されたのはハイドンがまだ、エステルハージ家に仕えていた1760年のことで、この時33歳。ハイドンは共に仕えていたチェリスト、ヨーゼフ・フランツ・ヴァイグルのために書いたとされている。
バロックの趣きである理由は、リトルネッロ形式と言われる、主題に何度も回帰しながら進行する音楽様式による。その形式基づく第1楽章の4拍子によるモデラートについて、N響の今シーズンについて書かれた分厚い冊子には、11月の項に2ページを割いて、「ハイドンの時間」と題された記事に詳しく記載されている。丁度エステルハージ家に仕え始めて数年が経過した頃からのハイドンの、音楽形式上の発展の経過を、(ほんの少しだけだが)知る事ができる。様々な試みを繰り返しながら、澱んだり中断したりしていたものが、次第に形式として方眼紙の如く整理され、恐竜がクーガーのような機敏で小回りの利くものへと機能分化したというのである。
このことがバロックから古典派への「進化」を意味するのだろうか。そのあたりはよくわからない。私はハイドンの音楽が、どう考えてもバロック音楽とは異なる新しさを、最初から持っていたと思っている。もちろん一部にバロックを思わせる形式を見出すことはできる。私は交響曲を第1番から第104番まですべて聞いたが、それはもう第1番からバロックではなかった。明治維新で日本社会が一気に近代へと突入したように、1750年頃という時代には、断絶とも思えるような音楽上の急変が起こっていたように思う。
チェロ協奏曲第1番は、滅法新しい音楽であると思う。今聞いても新鮮で、清々しい軽やかな風が吹いている。だから、というわけではないが、お気に入りはモダン楽器によるものではなく、古楽器風の演奏である。もちろん、古楽器風の演奏が、モダン楽器よりも新鮮で新しい、という逆説的な事実に基いている。ロストロポーヴィチの弟子であるモニゲッティは、ベルリン古楽アカデミーと気品を失わず、フレッシュな演奏を繰り広げている。もっと過激な演奏もあるが、
第2楽章で緊張が持続せず、飽きてしまう演奏もある。だがモニゲッティの演奏はそうはならない。 師匠のロストロポーヴィチにも有名な録音があるが、モダン楽器全盛時代の歴史的名演も、やや時代遅れの印象にさせてしまう演奏である。
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