2020年3月1日日曜日

モーツァルト:交響曲第39番変ホ長調K543(ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団)

モーツァルトの交響曲を順に取り上げている。気が付くともうあと「三大交響曲」を残すのみとなった。ケッヘル番号は500番台に入り、いわゆる「晩年」の作品に突入したことになる。といっても36歳で夭逝したのだから、「三大交響曲」が作曲された1788年はまだ32歳である。だが35番以降の作品の充実度は、目を見張るほどに進化している。とりわけ最後の3つの交響曲については、神業とも言うべき水準の作品であることは素人にも明らかである。

いわゆる「三大交響曲」、すなわち第39番変ホ長調K543、第40番ト短調K550、及び第41番ハ長調K551がどういう理由で作曲されたかは明らかではない。また生前に初演されたのかも不明である。謎めいたその理由について、研究者でなくとも理由を探すことは興味がある。だがこれまで定説になったものは、ない。にもかかわらず驚くべき完成度を誇ると同時に、その作曲期間はわずか4か月。しかもそれぞれの作品が、異なった趣きを持ち、様々な方向に光を放っている。

モーツァルトはこの時期、すでに作曲家としての評判は落ち、移り気の早いウィーンでは予約演奏会もできなくなっていたと言われている。モーツァルトが音楽史に名を残す理由は、オペラ分野を除けば、このような逆境にも関わらず芸術的志向を強め、必ずしも大衆受けをするわけではない作品を作り続けたことにある、と思う。これはピアノ協奏曲だけでなく交響曲においてもそうだった。例えば楽器編成から考えて、この3つの交響曲を同じ日に演奏することを前提にしているとは考えにくい。「三大交響曲」に見るモーツァルトの新しい作品への探求の結晶は、プロの音楽関係者を意識してか、誰にでもわかる単純なものではない。あらゆる音楽的試みを駆使し、それまでの知識や経験を総動員している。

この第39番では、珍しいことにクラリネットが多用されている。第2楽章のカンタービレにおいても弦の後で鳴っているのが聞き取れるし、終楽章でもフルートやファゴットに混じって時折顔を出すが、もっとも明確にわかるのは第3楽章のトリオだろう。クラリネットが使われる代わりにオーボエが省かれている。 そのことが全体にまろやかなスパイスを与る結果となっているが、全体的には構造がしっかりしした作品だと思う。冒頭の序奏の和音は、まるで神の啓示が現れるような荘重なもので、時に不協和音を交えて厳かに奏でられるメロディーを聞くだけで、私などはモーツァルトに「圧倒」される。

第1楽章のほとばしり出る主題と、トランペットも交えて繰り返される音楽の骨格は、私が初めて聞いた演奏がジョージ・セルの指揮だったこともあってな極めて印象的だった。おそらく親しみやすさという観点では、この交響曲は最高峰ではないかと思う。

初春の昼下がり。最近、私は明るい陽射しに誘われて近くの小径を散歩しているが、今日はこの第2楽章を聞いている。ぽかぽかした陽気が、実によく合う。まだ肌寒く、ときおり物悲しい気持ちになる日本の春には良く似合うなあ、などと感心していると第3楽章に入った。ここはそれまでに聞いて来た交響曲の単なるメヌエットとはとても異なる。リズムを刻む3拍子を、セルはキビキビと切れ味鋭く、一切の妥協を許さない。けれどもクラリネットが入っているせいか、ポルカのようにどこかのんびりとした風情が漂う。

私が現在、もっともよく聞いているのはジェフリー・テイトが指揮した全集の中の一曲である。CDでデビューした頃の演奏で、首席指揮者をつとめていたイギリス室内管弦楽団を振っている。弟がこのCDを買ってきたとき、そのプロフィールに「クレンペラーの再来」などと書かれていたのを思い出す。確かに車椅子に乗った指揮者という側面もあったが、隅々に及ぶ音の広がりや安定感、それでいて飾り気のないアンサンブルなど確かに共通点も多いなと思った。

その全集は80年代に完成し、どの曲をとってもすこぶる完成度が高く、いまもって最も優れたモーツァルトの交響曲全集と思う。そして嬉しいことには、この演奏あたりから繰り返しをきっちりと行っていることだ。このブログで取り上げたこれまでのモーツァルトの演奏は、ワルターであれスイトナーであれ、LP時代の名演には違いがないが、収録時間の関係で繰り返しが省略されるのが慣例だった。音楽評論家の故・宇野功芳氏は「全神経を集中して提示部を聴き終え、さてその次は、と胸をはずませていると、いちばん初めに戻ってしまう。これでは緊張力が急になくなる。」(「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集編」講談社)と書いているが(交響曲第38番「プラハ」のジェイムズ・レヴァインの演奏について)、 私は一般的にはそうは思わない。いい演奏はいつまでも聞いていたいからだ。

CD時代の演奏の標準は、特に終楽章であっても楽譜の指示通りに繰り返すことだから、むしろ古い演奏を聞いていると「あれ、もう終わってしまうの?」と思ってしまう。セルやベームの歴史的名演奏が、明らかに損をしていることになる。第4楽章のまるで行進曲のようなメロディーは、初めて聞いた時から大好きな曲である。このテイトによる演奏も、終楽章の再現部をきっちり反復しており、長い。でも演奏が素晴らしいので、大変喜ばしい。もちろん緊張が失われることもない。

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