2025年1月28日火曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第660回定期演奏会(2025年1月25日すみだトリフォニーホール、佐渡裕指揮)

久しぶりに聞いた佐渡裕の指揮は、オーバーアクション気味だった若い頃に比べ随分落ち着いたものになったと感じた。新日本フィルは佐渡を音楽監督に迎えてから、快進撃を続けていると言って良いだろう。特に彼の指揮するコンサートのチケットは、入手困難になりつつある。今年2年目となる24-25シーズン中最大の聞きものであるこの日の演目は、マーラーの交響曲第9番である。

バーンスタインの弟子として自らを紹介する彼にとって、バーンスタインが残したマーラーの交響曲全集は、クラシック音楽史上の遺産と言ってもいいだろう。そのマーラーの最高作品とも言える第9交響曲を指揮するとなると、それはもう一大事である。満を持して入魂の演奏が期待できる。そのように感じていた東京のクラシック音楽ファンは大勢いたであろう。当然というべきか、25日のすみだトリフォニーホールでの公演、および翌26日のサントリーホールでの公演のいずれもが早々に売り切れてしまったのだ!

私は仕方なく、諦めていたところへ1通のメールが届いた。なんと僅かな枚数のチケットを売っているというのである!前日24日のお昼頃である。この時ほど在宅勤務の有難さを思ったことはない。さっそく昼休みに新日フィルのサイトへアクセスしたところ、赤坂の方は売り切れていたが、すみだの方は空席があったのだ!丁度妻も在宅勤務の日だったため、即彼女を誘い、2枚のチェットを入手することができた。S席1階の左端で悪くない。しかも会員だからか、eチケットだからかよくわからないのだが、少し割引もあった。

会場にはまず、マイクを持って佐渡自身が登場し、55年前の大阪万博の頃に来日したカラヤン&ベルリン・フィルと、バーンスタイン&ニューヨーク・フィルのことについて話した。この時のプログラムは、カラヤンがベートーヴェン・チクルスだったのに対し(我が家にもプログラム冊子があった)、バーンスタインは当時まだあまり知られていなかったマーラーの交響曲第9番を演奏したとのことだった。小学生だった佐渡少年は、これをきっかけにマーラーに目覚めていった、云々について軽やかに喋った。

佐渡は京都生まれである。関西人として感じるのは、こういう時の京都人は(そうでなくても、かも知れないが)、あまり本心をさらけ出して心情を語るようなことはしない。むしろあえて何事もないかのように振舞う。しかしそこには並々ならぬ情熱が込められているかも知れないのだ。「80分を超えるかもしれないが、ゆったりとお楽しみください」とさりげなくプレトークを終えた彼は、一旦舞台から去り、チューニングのあと再び登場。振り下ろした指揮棒から流れてきた音楽は、実に自然で、気を衒ったところはなく、それでいて豊穣にして確信に満ちた足取りである。

カラヤンをして「大変疲れる」とさえ言わしめたこの難曲を、いともこなれた手つきで指揮する姿を見て、佐渡の指揮も円熟味を帯びてきたと感じたのだった。私はかつて、N響定期に初登場した「アルプス交響曲」や、新日フィルとのヴェルディの「レクイエム」を聞いたことがあったが、これらはいずれも90年代のことで、彼自身まだ若かった。まるでバーンスタインをコピーしたような身振りが印象的で、ちょっと音楽が上滑りしているときもあったように思う。だが、あれから30年近くが経過して聴く音楽は、より自然体であった。この難曲を軽やかに指揮することは、ものすごく難しいだろう。

ずっと同じような調子で流れている音楽が、惰性に陥ることなく、常に新しいフレーズに聞こえてくる。実際、この長い曲にあって、単純な繰り返しは一切存在しない。派手な打楽器や合唱こそ伴わないにもかかわらず、音楽の凝縮度は一貫して非常に高く、緻密である。両端にアダージョを配するという意外性もあって、長い曲を集中力を持って聞かせるのは並大抵のことではない。だがこの日の演奏は、それを実現していた。第2楽章の中盤以降に至ってオーケストラに自信がみなぎってきたことはよくわかった。第3楽章の後半での迫力は、この日の演奏のクライマックスだった。

長めの休止を経て流れ出る第4楽章の、豊穣にして繊細な音楽は、マーラー音楽の集大成である。ランプの灯が静かに消えていくように、最弱音が長く続くコーダを、これほどにまで見事に表現した演奏は私自身初めてだった(とはいうものの、この曲を実演で聞くのは3回目に過ぎないのだが)。おそらく興ざめだったのは、その最高に美しい瞬間に、若干の咳があったことだ(それも1回だけではない)。このことによってだろうか、手をおろした(佐渡は第4楽章ではタクトを持っていなかった)指揮のあとに沸き起こった拍手には、少し戸惑いが感じられた。もっと余韻に浸りたい気持ちと、早く拍手をしたい気持ちが交錯していた。あの咳がなければ、もっと落ち着いた拍手になったのではなかろうか。定期会員で占められた客席は、だれしもがこの難曲を知り尽くしているわけではない。

だが、そういう外的要因を別にすれば、最高位の水準にあった演奏だったと思う。翌日のサントリーホールの公演では、どのような演奏になっているのだろうかと想像する。それでも諦めていたこのコンサートに行くことができたのは幸運だった。音楽に完成度が増した佐渡裕の演奏に、これからはもっと頻繁に出かけたいと思った。

2025年1月27日月曜日

NHK交響楽団第2029回定期公演(2025年1月24日NHKホール、トゥガン・ソヒエフ指揮)

妻の誕生日が近いので洋菓子を買いに渋谷の「ヒカリエ」なるデパートに赴いた。1月末から2月にかけて、我が国ではチョコレートのシーズンでもある。何軒か覗いてみると、色や味がすこしずつ異なる様々なチョコレートが並んでいる。1粒数百円もする高級チョコレートを買うと、固い箱に入れられ、カラフルな包装紙に包まれていた。わずかな色や味の違いを見せるチョコレート本体の芸術的な美しさと、それを包むパッチワークのような包装。その数十分後、私は公園通りを上ってNHKホールに入り、今宵の演奏会の開始を待った。

もらったプログラムを見ながら、チョコレートのことを考えていた。妙なことに、それは今日のプログラムに似ていたからだ。つまりブラームスの交響曲第1番は、まるで並べられたダーク・チョコレートのように、凝縮された原料が時に芳醇な香りを主張しつつ、一見しただけではわからないような色の変化を楽しむさまであるのに対し、ストラヴィンスキーの組曲「プルチネルラ」は、その包装紙のようにくっきり明瞭な赤や黄、緑といった色が、まるでピート・モンドリアンの絵画のように幾何学的に配置されているような曲に思えたからだ。

素人の変な思いつきにも、少し根拠はある。すなわちこれらの2曲はいずれも、その時代に反してより古典的な様式を取り入れている点である。ブラームスは長い年月をかけて、バッハからベートーヴェンを経てロマン派に至るあらゆる音楽を研究し、古典的様式にのっとって最初の交響曲を作曲したことはいう間でもなく、ストラヴィンスキーはペルゴレージの音楽を模倣して「プルチネルラ」を作曲し(もっそもそのペルゴレージの作品も偽物だった)、いわゆる「新古典主義」の魁となった。いわば2曲とも、ロマン派後期において過去の様式を模倣して作曲された作品という共通点がある。だがその2曲は、上記で述べたように対照的である。これらを同じ日の演目に並べるのが面白いところである。

さて、ロシアの指揮者トゥガン・ソヒエフは毎年1月、NHK交響楽団に客演するのが恒例なっている。かつては優秀な若手指揮者として、十八番のロシア音楽やフランス音楽中心のプログラムが多かったが、最近はベルリン・フィルやウィーン・フィルにも毎年のように登場し、その多忙さは想像に難くない。にもかかわらず我が国に1か月近くも滞在し、今回も3種類のプログラムを振ってくれる。私はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」(A定期)を聞きたかったのだが、あの広いNHKホールが2日とも満席になるという異常な人気で諦めざるを得なくなり、サントリーホールで開かれるB定期も発売数が非常に少ないため断念。残った選択肢としてC定期を買い求めることとなった。なぜかこの日は多くのチケットが残っていた。

ソヒエフは今や、ドイツものもレパートリーに加えつつあるようだが、彼とブラームスの相性は悪くないと思われた。その理由は、私がソヒエフの音楽に感じるフレーズごとの、しっかりとした音色と音量の変化(それは天才的と言ってもいい)が、まるでチョコレートの風味や色合いのような微妙な違いを完璧に表現する様子が想像できたからである。けだしそれは正しかった。交響曲第1番の冒頭のティンパニ連打に始まる弦楽のうねりは、その一音一音が異なって聞こえた。2階席の奥という、サントリーホールならもっとも遠いような席にも、それは明確に伝わって来るのだった。

各ソロパートが大活躍するのが、この曲の聞き所である。そのクライマックスは第2楽章中盤のヴァイオリン・ソロである。3月をもって退団するマロさんこと篠崎史紀氏がコンサート・マスターを務める定期公演は、これが最後とのことである。おのずと注目が集まるその部分で、実に高らかかつ伸びやかに、確信を持って鳴り響いた時は会場の空気が変わった。例えようもなく美しかった。第3楽章でのクラリネット、第4楽章でのホルンやフルートもさることながら、この瞬間が本公演の白眉だったと言える。演奏が終わって真っ先に立たせ、あるいはオーケストラが退場してもなお拍手に応えるべく再登場した指揮者は、彼を連れてきた。

第4楽章で、あの有名な「第九」風のメロディーが聞こえてくるときも、そこだけを強調する指揮ではなかった。ごく自然に音楽は流れ、クライマックスを築いた。惜しむらくはNHKホールというところ、結局正面の前方で聞いていないと、臨場感が味わえないと思う。結局このホールは、オーケストラにとって広すぎるのである。それでも大きなブラボーは3階席から轟いた。檀ふみ氏が語っているように、もしかしたら3階席の最前列が「隠れた最高の位置」なのだろうか。だがここの席は真っ先に売り切れるので、私は一度も座ったことがない。

「プルチネルラ」の方もソヒエフ流の職人技が光った演奏だった。だが本公演ではやはりブラームスに多くの時間を割いて、音楽を作り上げていたように思う。この曲、私は2回目である。良く考えてみると、私はストラヴィンスキーの作品をまだ取り上げていない。ブラームスの交響曲と合わせて、今年中には書き終えたいと誓った今年最初のコンサートだった。

2025年1月16日木曜日

ウィンナ・ワルツ集:「Ein Straussfest」「Ein Straussfest II」(エリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス管弦楽団)

言うまでもなくウィンナ・ワルツはウィーン・フィルが専売特許を持っているわけではない。むしろウィーン・フィルがヨハン・シュトラウスの作品を取り上げることが例外で、いわばポピュラー音楽をクラシックのオーケストラが演奏するような趣を持っているとされてきた。しかし時代は変わり、いまではウィーン・フィルまでもが人気取りの野外コンサートのような類のものにまで登場するようになった。この傾向に伴いニューイヤーコンサートの注目度が増し、80年代後半からは特に、お祭り化、大規模化した。シュトラウスの音楽は、世界的指揮者が大見得を切って演奏する難しいものになってしまい、すでに長い年月が流れた。

ウィンナ・ワルツを演奏した今年のニューイヤーコンサート2025は、早くもSpotifyでリリースされた。元日に放映されたテレビ映像と比べると、録音媒体として発売される方が完成度が高い。元日の放送は、今年は特に演奏が粗いと感じた。ウィーン・フィルの技量が落ちたのか、あるいはムーティの指揮がかつての統制力を失ったのか、近年ではもっとも満足度が低い演奏に思われたのだ。しかし本日Spotifyで聞くこの演奏は、いつものように洗練された音がしっとりと鳴っていて悪くはない。ムーティの指揮はとうとう音楽が止まるのではないかというくらいに速度が遅くなることもしばしばで、それはそれで面白いのだが、ウィンナ・ワルツの魅力をそのようにしてまで示し得ているのかどうかはわからない。

今年はヨハン・シュトラウス2世の生誕200周年だそうで、久しぶりにウィンナ・ワルツ演奏を取り上げようと思った。ただし、ウィーン・フィルの演奏についてはここにしこたま書いたので、今日はそれ以外のオーケストラが演奏したものを選ぼうと思う。私がウィーン・フィルのニューイヤーコンサート以外で好きな演奏は6つある。うち3つは米国のオーケストラによるもので、そのうちのひとつがエリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス管弦楽曲によるものでる。

意外に思われるかもしれないが、彼はオハイオ州シンシナティのオーケストラを指揮して2枚のシュトラウスのCDを残しており、なかなかの高水準の演奏を聞かせる。80年代に大ブレークしたテラークの名録音により、様々な効果音が挿入されていて、これはシュトラウスの意思を現代に受け継ぐものとして、私は好意的に評価している。どちらのディスクも、それはもう効果音挿入のオンパレードである。先にリリースされた「Ein Straussfest」のCDにワルツはたった2曲しかない(「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」)。それ以外はすべてポルカや行進曲で、しかも効果音が使われるものばかりだ。

数分間の短いポルカやギャロップにどういう効果音が使われているかは、わざわざここに書く必要もないだろう。なぜならその曲名を見ると明らかだからだ。「爆発ポルカ」では爆発音が、「クラップフフェンの森で」ではお馴染みのカッコーの泣き声が、そして「シャンパン・ポルカ」では栓を抜く音が威勢よく飛び出す。あまりにそういう音ばかりが強調されているので、もういい加減にしてくれ、と言いたくなるころにワルツが流れる。

ワルツの演奏はこういう演出が目立つものの、意外にも真面目でオーセンティックである。ウィーン訛りとも言うべき微妙な休拍も表現される。最近のやたらテンポを揺り動かす演奏というよりは、円舞のための音楽という側面を堅持しているのは好感が持てる。つまり、効果音も含め「おふざけ」の演奏とはなっていないばかりか、それとは一線を画している。あくまでシュトラウスが求めたであろう音楽の愉快さを求めた結果である。

楽譜に指定された音だけでなく、録音技術を用いて音楽に挿入されたものもある。2枚目の「Ein Straussfest II」の冒頭に収められたエデュアルド・シュトラウスのポルカ「急行列車」では、蒸気機関車の発車するシーンが登場し、その蒸気を発しつつ走行するリズムがいつのまにか音楽に乗っている。ポルカも楽しいが、やはりワルツのストレートな表現を、私は楽しみたい。嬉しいことにこの2枚で聞けるワルツは、どれも有名な名曲ばかりだ。「天体の音楽」はヨーゼフ・シュトラウス最高の1曲だし、ヨハンの名曲ワルツ「酒、女、歌」に長大な序奏が省略されることなく演奏されているのも嬉しい。

40年余りに亘ってシンシナティ・ポップスを率い、数々のベストセラーを生み出したエリック・カンゼルは、2009年亡くなった。もし今でも生きていたら、ウィーンでワルツを演奏することもあり得たかも知れない。私はカンゼルが、かつてウィーンで学んだ経験があると思っていたが、そのような記載は発見できなかった。だが彼自身がライナーノーツで語っているように、ドイツ系の両親が聞いていたウィンナ・ワルツの虜になって、これらの作品を演奏することがこの上なく楽しい、というのは真実だろう。

【収録曲(Ein Straussfest)】
1. ヨハン・シュトラウス2世:「爆発ポルカ」作品43
2. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「クラップフフェンの森で」作品336
3. ヨハン・シュトラウス2世:「シャンパン・ポルカ」作品211
4. ヨハン・シュトラウス2世:「山賊のギャロップ」作品378
5. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
6. ヨハン・シュトラウス1世:「ラデツキー行進曲」作品228
7. ヨーゼフ・シュトラウス:「鍛冶屋のポルカ」作品269
8. ヨハン・シュトラウス2世:「狩りのポルカ」作品373
9. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「ウィーンの森の物語」作品325
10. エデュアルド・シュトラウス:ポルカ・シュネル「テープは切られた」
11. ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス:「ピツィカート・ポルカ」
12. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」作品324

【収録曲(Ein Straussfest II)】
1. エデュアルド・シュトラウス:ポルカ・シュネル「急行列車」作品112
2. ヨハン・シュトラウス1世:ギャロップ「中国人」作品20
3. ヨハン・シュトラウス2世:「エジプト行進曲」作品335
4. ヨハン・シュトラウス2世:「芸術家のカドリーユ」作品201
5. ヨハン・シュトラウス2世:「皇帝円舞曲」作品437
6. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「百発百中」作品326
7. ヨハン・シュトラウス1世:ポルカ・シュネル「おしゃべりなかわいい口」作品245
8. ヨハン・シュトラウス2世:「祝典行進曲」作品396
9. ヨハン・シュトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」作品214
10. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「天体の音楽」作品235
11. ヨハン・シュトラウス2世:「鞭打ちポルカ」作品60
12. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル「騎手」作品278
13. ヨハン・シュトラウス2世:「クリップ・クラップ・ギャロップ」作品466
14. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「酒、女、歌」作品333
15. ヨハン・シュトラウス2世:「常動曲」作品257

さて、ここで残りの5つの演奏についても触れておきたい。これらは今もって素敵な録音で、ニューイヤーコンサートでは聞けなくなった打ち解けた雰囲気、リラックスしたムード、肩の凝らない情緒を持っている。これこそウィンナ・ワルツの王道ではないかとさえ思えてくる。

■ロベルト・シュトルツ指揮ベルリン交響楽団・ウィーン交響楽団

ウィンナ・ワルツといえばシュトルツの代名詞だった。彼自身もいくつかの作品を作曲している。シュトルツはウィーンとベルリンのオーケストラを指揮して何十枚もに及ぶワルツの遺産を築いた。そのどれもが色あせることなく、素敵な時間を約束してくれる。その素晴らしさは、ウィーン・フィルと膨大な録音を残したあのウィリー・ボスコフスキー以上と言っておきたい。平日午後のFM放送でたまにシュトルツのワルツ集が放送されると、私は喜んでテープに録音したものだった。

■ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

カラヤンはニューイヤーコンサートにも登場し、それ以外にもウィーン・フィルとは豪華絢爛な「こうもり」全曲を残しているが、手兵のベルリン・フィルとも多くの録音を残している。EMIに録音したCDはここでもとりあげたが、この他に70年代、80年代に何枚組にも及ぶディスクがある(と記憶している)。そのいずれもがカラヤン流の美学に貫かれた豪華な演奏だが、それがウィンナ・ワルツのあるべき姿かどうかはわからない。だがカラヤンでしか聞けない美しい演奏であることも確かだ(https://diaryofjerry.blogspot.com/2014/03/j.html)。

■ヤコフ・クロイツベルク指揮ウィーン交響楽団

ウィーンの2番手のオーケストラを指揮して、夭逝した指揮者クロイツベルクが真面目で正統的なウィンナ・ワルツの録音を残してくれていることは、もう少し注目されても良い。ここのブログでもいち早く取り上げたので、そちらを参照して欲しい(https://diaryofjerry.blogspot.com/2016/01/j.html)。

■フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団

ハンガリー人のライナーは機能的に完璧なオーケストラに、完璧にウィンナ・ワルツを演奏する方法を伝えたのだろう。それを真面目に再現するオーケストラをここでは楽しむことができる。私の記憶が正しければ、シュワルツコップが「無人島に持って行く一枚のレコード」に選んだのがこの演奏である。それがパロディなのかどうかはわからないが、この演奏は休日のドライブ中に聞くにはうってつけである。当時の演奏の欠点として、序奏や繰り返しが省略されている。

■ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団

もう一人のハンガリー人指揮者は、ペンシルベニアのオーケストラを指揮して黄金の「フィラデルフィア・サウンド」を打ち立てた。その指揮はゆるぎなく完全で、しかも絢爛豪華である。ウィンナ・ワルツの要諦も抑えつつ、機能美を生かした演奏は、ライナーのものによく似ている。いまだにファンが多いのだろう、今になってもリマスターされ発売されている。

(補足)

この他にもフリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団による演奏を取り上げた(https://diaryofjerry.blogspot.com/2015/01/j.html)。また、レハールを中心としたワルツ集(https://diaryofjerry.blogspot.com/2018/08/blog-post_20.html)とワルトトイフェルの作品(https://diaryofjerry.blogspot.com/2019/07/blog-post.html)については別の記事がある。

2025年1月6日月曜日

ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

カルロ・マリア・ジュリーニとウィーン・フィルによるブルックナーの交響曲第9番を聞いていると、これは望みうる世界最高のBGMではないかと思えてくる。この演奏をどう評価するのかは聞く人によるだろうし、遅すぎるとかもっといい演奏があるとか言われるかも知れない。しかし私にとってこの演奏は、この曲の魅力を初めて教えてくれたものだった。

今日は真冬の上州路を訪れるため、特急「草津・四万」4号に乗っている。熊谷を過ぎて早くも傾きかけた西日の向こうに、妙義山が見えている。西高東低の気圧配置が強まって、日本海側から吹き付ける北風が谷川岳に大雪を降らせ、そのあとは空っ風となって北関東に流れ込む。ちぢれ雲が空に浮かんでいる。その雲が日光を遮ると手元が明るくなったり暗くなったり。そうこうしているうちに高崎市内へ入った列車は速度を緩めた。ブルックナーの交響曲第9番も終わりかけのアダージョを迎えた。

ジュリーニはウィーン・フィルとの間で、第7番、第8番、それに第9番の録音を残している。ウィーン・フィルの方から録音を希望したという噂を聞いたことがある。その条件として通常以上の長さの練習がなされたらしい。そうしてまで、このブルックナーゆかりのオーケストラはジュリーニとの共演を後世に残すことにこだわった。その結果、私たちの手もとに世界でも屈指の名録音が届けられた。1988年のことである。

この演奏を聞くまで、私はこの曲を誤解していた。少なくとも理解が不足していたようだ。これは私の聞き方が足りなかったからか、あるいはそれまでに聞いた演奏がその魅力を十分伝えきれなかったからであろう。昨年はブルックナー生誕200周年だったから多くの演奏会が催されたが、今年もまたブルックナーの音楽は演奏され続けられるだろう。あまりに素晴らしい演奏だがら、年を越してなお、私はこの曲を聞き続けている。

世の中は激動の年を迎えた。だがまるで嵐の前のように、今年のお正月は穏やかでだった。テレビは例年のごとく低俗な芸能番組を垂れ流しており、その傾向にもはや多くの人が辟易している。家族がこのような番組を見ている以上、私は家庭に居場所がない。仕方がないからスマホにこの曲をダウンロードして、夜中の街を彷徨っている。さすがに寒い。だが極上の音楽が私を幸せにする。そのことに理由も何もない。だたひたすらに美しく、まるで天国にいるような感覚。

ブルックナーはこの曲を第3楽章まで完成し世を去った。未完成ということになっているが、この後にどんな音楽を続けたらいいのだろう。もしかしたら神は、ブルックナーに続きを作曲する必要はないと判断したのかも知れない。それほど完成度が高い。そしてジュリーニの演奏は、まるでこの曲を演奏する使命を帯びているかのようにピタリと寄り添い、どの楽器のどの音も完璧であるように聞こえる。ドイツ・グラモフォンの録音も非常に優れている。70分の演奏時間は丁度CD1枚に収まる。

特徴的なのは第2楽章がスケルツォとなっている点で、調性がニ短調であることも合わせ、この曲はやはりベートーヴェンの第九を想起させる。第1楽章は荘重で、第3楽章はアダージョが起伏を持って表れる。この曲について私は、この程度にしておこうと思う。第1楽章のいくつかの部分、確信に満ち揺るぎない第2楽章、そして第3楽章のほぼ全体を通して、私はブルックナーの神髄とも言うべき美しさに触れる。その恍惚的な幸福感は例えようもない。そこにどんな意味があるかは知らない。いや意味などないのだろう。そういうわけで、ブルックナーの音楽を難しくとらえる聞き方は好きではない。ただ流れに身を浸しておけばいい。

死ぬときはブルックナーを聞いていたい、と多くの人が言う。安寧の臨終であれば、それが最も幸福であると思う。しかし誰もがそのような幸せな最期を迎えるとは限らない。ブルックナーの音楽を聞きながら、こういう風に死ねればいいな、と多くの人は勝手に想うのだろう。

2025年1月1日水曜日

謹賀新年

2025年の年頭にあたり、新年のお祝いを申し上げます。

昨年は能登地震に始まった衝撃のお正月でしたが、今年はいまのところ平穏なお正月を迎えております。今年の作曲家のアニヴァーサリーと言えば、ヨハン・シュトラウス2世の生誕200周年というのが目に留まります。昨年はライブで視聴できなかったウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、リッカルド・ムーティがどのようなプログラムで聞かせてくれるか、今から楽しみであります。

第2039回NHK交響楽団定期公演(2025年6月8日NHKホール、フアンホ・メナ指揮)

背筋がゾクゾクとする演奏だった。2010年の第16回ショパン国際ピアノコンクールの覇者、ユリアンナ・アヴデーエワがラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の有名な第18変奏を弾き始めた時、それはさりげなく、さらりと、しかしスーパーなテクニックを持ってこのメロディーが流れてき...