フィンランドの名匠オスモ・ヴァンスカが昨年に引き続き東京交響楽団の指揮台に立ち、ベートーヴェンの交響曲第8番とラフマニノフの交響曲第2番を披露した。ヴァンスカのベートーヴェンといえば、私にはBISに録音されたミネソタ管弦楽団との演奏が強く印象に残っている。確か「第九」だったと思うが、オーケストラは極限まで研ぎ澄まされ、古楽器奏法の精神の極致を実現したかのような鮮烈な演奏だった。
あれから20年近くが経った。今回の演奏はモダン楽器によるもので、しかも弦楽器は18型という比較的大きな編成である。私は1階席の端(A席)で聴いたため、音響面では必ずしも理想的とは言えなかったが、プログラムによればこの18型編成は初演時と同規模だという。つまり、ベートーヴェン自身が指揮した初演も当時としてはかなり大規模な編成であり、こちらがオリジナルの姿に近いと言える。
そのような大編成でありながら、細部への神経の行き届いた精緻な表現には心を奪われた。第8交響曲はベートーヴェンが古典的作風へ回帰した作品であり、その造形美の完成度は全交響曲中でも屈指だろう。無駄をそぎ落とした音楽は苦悩の影を感じさせず、明るく楽天的な気分に満ちている。
第2楽章の小刻みなリズムはメトロノームの発明に触発されたことで有名だが、一音一音に込められた音色の変化が実に魅力的だった。第3楽章トリオではホルンが活躍し、プラハへ向かうベートーヴェンの高揚感まで彷彿とさせる。長大な第4楽章のコーダが終わると間髪を入れず拍手が起こり、この演奏会の成功を予感させた。
30分ほどの前半が終わり、20分の休憩となる。
今シーズン前半の東響は、思わず足を運びたくなる公演が目白押しだった。私は4回券を購入し、4月のパブロ・エラス=カサド、5月の新音楽監督ロレンツォ・ヴィオッティ、そして6月のオスモ・ヴァンスカと沖澤のどかという顔ぶれを選んだ。どの公演もプログラムの魅力が大きかったことは言うまでもない。
実はヴァンスカを聴くのは今回で3度目になる。最初は2008年、読売日本交響楽団とのベートーヴェンで、第4番や第8番を指揮した。当時は全集録音の時期だったが、不思議なことに私の印象はそれほど強く残っていない。同じ作品を聴いているにもかかわらず、今回ははるかに深く心に響いた。座席の違いなのか、オーケストラの違いなのか、それとも聴き手である私自身が変わったのか。
2度目は東京都交響楽団と、十八番のシベリウスだった。交響曲第5番から第7番までを取り上げた公演で、評判も高く、東京文化会館に集まった熱心なファンの熱気をよく覚えている。しかし演奏自体には既視感があり、驚きという点ではやや物足りなかった。また東京文化会館は音が拡散しやすく、個人的には集中しにくいホールでもある。
それに対して今回のラフマニノフは、東響の演奏史のみならず、日本における同曲の演奏史の中でも屈指の名演だったのではないかと思う。前半で示された細部への徹底したこだわりは、後半でさらに大きな成果を生んだ。精緻を極めた結果、オーケストラの表情は千変万化し、それでいて全体のバランスは絶妙である。その響きの統御ぶりは、まさに職人的。ヴァンスカは時折身をかがめ、次の瞬間には舞台上で跳ね上がる。決して大柄な指揮者ではないが、その身体表現がオーケストラの集中力を最後まで維持していた。
日本フィルのカーチュン・ウォンや広上淳一にも独特の身体表現があるが、ヴァンスカの場合は、ときにオーケストラへ主導権を委ねるような瞬間がある。そこで音楽はかえって自由さを増し、一気に飛翔する。
第1楽章は比較的遅いテンポながら、どこかシベリウスを思わせる寂寥感と、ロシアの大地を感じさせる重厚さが絶妙に融合していた。
色彩感あふれる第2楽章のスケルツォも見事だったが、やはり白眉は第3楽章である。抒情的な旋律が次々に現れ、ヴァンスカの音楽に完全に同化したオーケストラからは、うっとりするような歌が延々と紡ぎ出された。
このアダージョでは、ヴァンスカはトランペット奏者を舞台裏で演奏させた。その効果は抜群だった。音が分離して聞こえることなく、舞台上のオーケストラと自然に溶け合い、幻想的な響きを生み出していたからである。
そして大団円となる第4楽章。抒情性に満ちたラフマニノフの音楽は、チャイコフスキーとは異なる洗練された都会的な感覚を備えている。もちろん、この作品が書かれた時点ではまだアメリカ亡命前である。それでも彼はロシア音楽の最も美しい歌を交響曲の中へ注ぎ込み、通俗性に陥る寸前で踏みとどまりながら、壮麗で華やかなコーダへと導いていく。
1時間近くに及ぶ大作を存分に堪能した。終演後には大きなブラボーと拍手喝采が続き、その熱狂は10分以上にわたって鳴りやまなかった。

0 件のコメント:
コメントを投稿