プログラム・ノートにもあるように、これはマーラーの「田園交響曲」である。おそらく静かに流しているだけでも心地よく聴いていられる作品だ。その長さは約1時間40分に及び、マーラーの交響曲の中でも最長である。もちろん休憩はないから、演奏する側にも聴く側にも相応の覚悟が求められる。
そんな大作も近年ではしばしば取り上げられるようになり、今回は音楽監督の佐渡裕が自ら指揮を執る。新日本フィルは一連のマーラー作品を順次取り上げており、私は昨年、第9番を聴いた。その公演も完売が続き、この不況下にあってなお盛況である。
その新日本フィルは、もしかすると今がかつてないほどの充実期なのではないかと思わせた。私の座席の条件が良かったのかもしれないが、オーケストラの各パートがほどよく溶け合い、それは独唱(メゾ・ソプラノの藤村美穂子)、合唱(晋友会、東京少年少女合唱隊)にも共通していた。
舞台裏から響く打楽器や金管のソロでさえ、舞台上のオーケストラとの重なりがこれほど完璧に聴こえたことはない。弦楽器のまとまり、木管との溶け合い、さらには打楽器の力強さに至るまで、この作品でここまで完全な融合を感じた記憶はなかった。
私はこれまでの演奏を思い返した。そもそもこの長大な作品が演奏会で取り上げられる機会は、かつてそれほど多くなかった。マーラーの交響曲の中でも第3番は、とりわけ大規模な編成を必要とする。私にとって最初の実演体験は、NHK交響楽団とシャルル・デュトワによる演奏会だった。この時のことは意外なほど鮮明に覚えている。ただ、会場が広すぎて音が遠く、感動したとは言い難かった。
それから長い年月が過ぎ、数年前には日本フィルの演奏会でも聴いている。指揮者が誰だったか思い出せずにいたが、記録を確認するとカーチュン・ウォンだった。もっとも私は、本来であれば広上淳一が音楽監督として最後に指揮する京都市交響楽団の特別演奏会でこの曲を聴くはずだった。その時の独唱も藤村美穂子である。彼女はこの公演のためだけに、わざわざドイツから帰国していた。
ところが、折しもコロナ禍だった。少年合唱団が十分な練習を行えないという事情から、プログラムは「巨人」へ変更された。藤村は《リュッケルトの詩による5つの歌曲》を歌った。それはそれで素晴らしかったが、やはり第3番を聴きたかった私は、日本フィル定期でこの作品を見つけ、サントリーホールへ足を運んだのである。
以上、私は過去に2回、第3番を聴いたものと思っていた。ところが記録を検索してみると、実はもう一度聴いていた。それはファビオ・ルイージとN響がヨーロッパ公演で取り上げる予定の曲を事前に定期演奏会で演奏した時のことだった。しかし、この演奏会については、それを聴いた事実さえ忘れているというありさまである。わずか1年前のことにもかかわらず、記憶にほとんど残っていないコンサートとは、一体何だったのだろうかと思う。
それに対して今回の佐渡裕の演奏は、おそらく一生心に残るだろう。この作品の持つ深みをあらためて味わい、新たな発見へ導かれたことは言うまでもない。それは冒頭からコーダまで続き、一瞬たりとも退屈することがなかった。佐渡は、もしかすると今や巨匠への道を歩み始めているのではないかと思った。ここで聴かせた演奏は、力みの目立つものではない。余計な力を抜きながらも音と音との均衡を重視し、その響き方に細心の工夫を凝らしているように感じられた。自然で、さりげない。しかしだからこそ、そこに職人的な矜持が見える。
そういえば若い頃の佐渡の音楽には、力が入りすぎて時にバランスを欠き、どこか空回りしているような印象があった。しかし今はそうした面影はない。むしろ音楽そのものが一回りも二回りも成熟している。その根底には、音楽を奏でる喜びが確かに感じられる。
長大な第1楽章で見せる圧倒的な推進力、第2楽章の諧謔味あふれる自然な表情、第3楽章での見事なソロとの融合。そして突如として降臨するメゾ・ソプラノの豊かな歌声によって、会場は一気に神秘的な空気に包まれる。続く合唱が始まると、聴衆は固唾をのんで耳を傾けた。終楽章の冒頭は、まるでバーンスタインを思わせるような愛情深さに満ちている。そこから徐々に高まり、深く波打つように昂揚していく様は、まさに感動的だった。
タクトが下ろされると、誰かがブラボーと叫び、それに呼応するように大きな拍手が沸き起こった。それは10分以上続いただろうか。長い旅から帰ってきた時のような充足感は、言葉では表現できない。各パートと熱く握手を交わし、独唱者も合唱団も一体となって、この日の成功を祝っていた。月末にはフィリピンでのコンサートを控えているらしい。先日発生した地震災害への寄付を呼びかけるため、自ら募金箱を手に会場出口に立ったマエストロのもとにも、多くの人々が集まっていた。



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