珍しいチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番が何とか聞ける程度にまで聞き込んだ後でさえ、この第3番はさらに根気がいる。長いことに加えて、3つの楽章にまとまりがなく、全体としては散漫で、何となく「ピアノ付きの交響組曲」といった感じだからである。それもそのはずで、チャイコフスキー自身がすべてを作曲したのは第1楽章のみで、残りの2つの楽章は友人であるタネーエフによって、彼の死後に完成されたものである、とのことである。
チャイコフスキーの意志と、音楽的スケッチをベースにしているとはいえ、別の作風の音楽が混じっていることは明らかである。そして第1楽章についてもチャイコフスキー自身、ピアノ協奏曲として作曲したわけでは、最初はなかった。彼は大変な苦闘に耐えながら、自身の作品を改善していった。にもかかわらず、この曲は成功しなかった。その理由について語るほど、私はチャイコフスキーについても、また音楽そのものについても詳しくない。
そのような素人でも、それだけで完全な交響詩のような第1楽章をきけば、もう十分であるように思う。それぐらいこの楽章は気合十分な曲である。もちろん第1番ほど印象的な主題があるわけではないので、聴き終わってもあまり心に残らない。随分派手な曲だなあ、などと思う。そしてこのデュトワを伴奏としたヤブロンスキーの演奏は、このような曲でも手を抜かずに一定の完成度で聞くことができる。
そういうわけだから、第2楽章以降の、あまり気乗りしない音楽についても、それなりに十分に響いているので、音楽そのものの良い点も悪い点も映し出すようなところがある。できればこれらの音楽は、単独で聞くのがいいのではないかとさえ思う。特に第2楽章の長大なカデンツァなどは、これがピアノ協奏曲の一部とはもはや思えないくらいだ。純粋にこれがチャイコフスキーの作品ではないのだから、もうこの曲は第1楽章だけでいいと諦めるのもひとつの考えである。そして実際いくつかの過去の演奏では、この第3番は第1楽章のみ録音されるケースがある。
チャイコフスキーはこの作品を交響曲第5番のあとに交響曲として着手したようだ。結局納得がいかず没となり、交響曲としては「悲愴」に至るのだが、そう考えるとチャイコフスキーは、特に晩年は何をどのように作曲して良いのかわからなかったようだ。彼はあまりにいい曲を、それまでに完成させてしまった。その過去の成功に苦しんでしまうこととなった。
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