私たちはすでに、大成功をおさめ音楽史に名を残すまでになったワーグナーを知っている。バイエルン王の絶大なる庇護のもと、大作「ニーベルングの指輪」を上演する専用のオペラハウス(バイロイト祝祭劇場)まで作ったドイツの大家は、ベートーヴェンの音楽世界とシャークスピアのドラマの世界を融合させた。だが、そのワーグナーも、若い頃から成功を約束されていたわけでは勿論ない。
それどころか、ワーグナーの波瀾万丈の人生は、(同年代のヴェルディほど貧乏で苦労したわけではないにせよ)自らの芸術的志向をどう表現するかについて、悩み続けた。ドレスデンで革命に参加した劇場の音楽監督は、間一髪のところで逮捕を免れ、亡命先で逃亡生活を余儀なくされる。この映画は、そのようなドレスデン時代から晩年までを描く大作だが、全部で7時間にも達するすべてを上演するわけではなく、チューリヒからヴェネツィアに至り再びスイスに戻るまでの放浪生活を描く第1部のみの(中途半端な)上映会であった。
ライプチヒで生まれたワーグナーにも、その少年時代や音楽学生の時代があったが、ここでのワーグナーはすでに「リエンツィ」の成功でヨーロッパに名前を知られ、歌手のミンナとも結婚をした後の、いわば「大人としての人生」から始まる。そのせいか、全体に漂う冷静さがまずは映画を見るものを少し退屈にさせる。加えてこの映画では、音楽的なシーンが少ない。ローエングリンなどの名作を生み出すことは、映画の中では基礎知識として持ち合わせていることさえ前提となる。
ショルティの指揮する音楽が随所に使われ、その音楽もわざわざ映画用に録音されたというこだわりだが、オペラのシーンは避けるように乏しく、マイアベーアとの出会いも、パリでの極貧生活も描かれていない。ここではそういったことを前提に知っている人が、さらにどのような雰囲気でマチルダとの交際に及んだか、といったシーンを興味深く見ることとなる。だがそのような知識がないと、かなり偏った部分がつなぎあわされ、しかも漠然としたものになるのではないかと思われた。
会場には数多くの客が2階席にまで入り、しかも上演前にはゲストによるプレトークも行なわれた。映画館専用のホールではない上映会で、このような客の入りは結構なものである。ヴェネツィアでの生活に見切りをつけ、スイスに向かうところで突然中断された客は、そうはいうものの少しずつ全体を楽しみつつあったところに水を差された格好で、溜息が漏れた。ヴェーゼンドンク夫妻との諍いあたりから、少しずつ面白くなってきたのに、というわけである。
だが私にとって、この「トリスタンとイゾルデ」が誕生するきっかけとなった出来事が、一流の俳優によって演じられたシーンを見ることによって、この夏に予定している「トリスタン」の映画上映に向けた予習を行うことが出来た。それからミンナという最初の妻は、やはり可哀想だなとも思った。芸術家の人生とは、やはり一般の生活とは違うものである。そうであると思えば思うほど、もう少し狂気じみた風に描かれていくのかと思ったが、この映画でのワーグナーは、少しとらえどころのない紳士である。もしかするとこれが実際に近かったのかも知れない。
ワーグナーを描いた映画は、しかしながらそう多くはない。そしてこの長編大作が、かなりの資金と工程を費やして撮られた数少ない映画である。今回の上映はディレクターズ・カットで、従来の編集済みのものではない、というのが売りである。だが、第1部のみを上映しておいて、あとはDVDを買ってくださいというのは、どうもいただけない。
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