
特に第2楽章に入ると、フルートが、オーボエが、あるいはクラリネットが、次々と物憂げなメロディーを奏で、それに聴き込まれていくうちに、何かとても長い時間が経過したかのように感じる。どこか違う風景の中を旅しているような、しばし身近な事を忘れてしまう時間が来るのである。かつては、そういう演奏ばかりだった。
だが最初にこの曲を聞いた時は、ステレオ装置が壊れているのではないかと思ったものだ。なかなか音楽が始まらず、始まってもボリュームが大きくならない。A面の「運命」はいきなり「ジャジャジャジャーン」だし、おおよそ交響曲の出だしというものは、そういうアレグロだと信じていた私は、何故この曲がこんなに静かな曲なのにそれほど有名な作品であるのか、理解できなかった。序奏が終わっても静か、そしてとうとう第2楽章に至っても、緩やかな三拍子の物憂いメロディーが続く。
「未完成」であるために、この曲の演奏は通常、第2楽章で終わる。何か煮え切らない気持ちがしたものだった。だが私はトスカニーニによる演奏を聞いて、少し考えが変わった。それなりに緊張感をはらみ、アクセントを強調すれば、フォルテもクレッシェンドもある曲だったのである。そして演奏によっては、何か例えようもない位に心を揺さぶる。音楽を聞いてこのような経験は初めてだった。確かその時は、ジョゼッペ・シノーポリの演奏(最初のフィルハーモニア管弦楽団とのもの)だったと思う。
いまこの演奏を聞いても、少し風変わりな演奏だと思う。そしてこのブログを書くにあたって数々の演奏を聞いていくうち、やはりこの演奏に行き着く、というのが、アンドレ・クリュイタンスが指揮したベルリン・フィルの演奏だ。録音は59年頃で私も生まれる前、当然ながら少しノイズがある。だがこの演奏は隠れた名演だと思う。ベートーヴェン全集の付け足しのように録音されたようだが。
ベルギー生まれのクリュイタンスは、ベルリン・フィルから明るい音色を引き出している。しかしそれがシューベルトの暗さと奇妙にマッチして、そこはかとない寂寥感を湛えている。今では珍しくなったルバートをかけるが、それがもたれることもなく、むしろ整っている。溺れそうになるような演奏ながら、理性が優っている。何か、大河ドラマのシーンに流れるような感じで、たっぷりと歌っている。
誰にも認めてもらえないような孤独感。若者の諦観。そういったものがこの曲には溢れている、と私は感じている。秋の深まる季節、木々の葉が木枯らしに揺らされて舞い落ちる。夕方、学校から帰ってくると、私はそのまま机に向かい、試験勉強に明け暮れたものだった。だが、その間中、私は音楽を聞いていた。その音楽は、日が暮れていくと共に深く心の底に入ってきて、私の胸を締め付けた。
シューベルトの孤独。それはこのロマン派の音楽を語る上で欠かせない。父親に見放され、今で言うニート生活をしながら、彼は音楽史に残る名曲の数々を作曲していった。シューベルトにも音楽的な野心がなかったとは言い切れない側面がある。だが、多くの素晴らしい作品は、彼のもっともパーソナルな側面に対して装飾的な想像力を掻き立てる。どういう聞き方があってもいい。だから「未完成」は多くの個人にとって青春の音楽になっている。その苦しさは、全く個人的な胸の底にしまわれた、自分にしか理解できないものであればあるほど、そっとしておいて欲しい。その気持をちを、いつもは忘れているが、この曲を聞く時は思い出す。だから、大人になると「未完成」を聞く機会は減るし、その時には覚悟がいる。
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