2015年6月15日月曜日

モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」(2001年11月18日、新国立劇場)

モーツァルトのオペラは常に私のそばにあり、いつも楽しませてくれていた。その中でも「魔笛」は最初に親しんだオペラである。高校生の頃から童話のようなストーリーと心を洗われるような音楽に感動していた。「フィガロ」や「コジ」も、私にとっては親しみやすく、ショルティの威勢のいい演奏で聞くと18世紀の音楽もこんなに躍動感のある、ヴィヴィッドなものになるのかと私を驚かせていた。

最後に残ったのが「ドン・ジョヴァンニ」である。このオペラだけは、私を長い間遠ざけ続けた。その理由はあのモーツァルトの爛漫とも言える楽天性が感じられないのである。それもそのはずで、ハッピー・エンドではない。屈託なく楽しめる音楽ではないのに「ドン・ジョヴァンニ」の評価はすこぶる高く、モーツァルト音楽の最高峰という人までいる(私も今ではその一人かも知れない)。たとえ話が暗くても、音楽は常に豊穣に鳴り響き途切れることがない。そればかりか第1幕のフィナーレに至っては、これでもまこれでもか、といつもながらの絢爛たるめくるめくような世界。登場人物は他のダ・ポンテ作品と同様、常に生き生きと描かれ、愛すべき人たちが舞台に何人も登場する。音楽の点でもストーリーの点でも飽きることはない。

そのような「ドン・ジョヴァンニ」を是非見てみたいと思っていた矢先、新国立劇場のプログラムにのぼった。前年に見た小澤征爾音楽塾も待ち遠しかったが(主役はブリン・ターフェルとアナウンスされていた)、新国立劇場も悪くはない。主役のドン・ジョヴァンニはフェルッチョ・フルラネットである。以下配役は、ドンナ・アンナにアドリアンヌ・ピエチョンカ、エルヴィラに山崎美奈・タスカ、レポエッロにナターレ・デ・カロリス、ドン・オッターヴィオに櫻田亮、ツェルリーナに高橋薫子、マゼットに久保田真澄、騎士長がペン・カンリャン。ポール・コネリー指揮東京フィルハーモニー交響楽団。演出はロベルト・デ・シモーネ。

「ドン・ジョヴァンニ」の音楽の見事さは、序曲において端的に示されているように思う。重々しい和音(ニ短調)が異様な迫力を持って鳴り響いたかと思うとアレグロに転じ、一気に舞台(中世のスペイン)に引き込まれていくからだ。その展開のすばららしいこと!序曲が第1幕の音楽に続いていく。いつのまにか決闘のシーンに変わり騎士長がころされてしまう。その間数分。「ドン・ジョヴァンニ」の簡潔で見事な展開はこのようにして始まり、そして第1幕を通して続く。

「ドン・ジョヴァンニ」を最も歓迎し、その先進性に気付いたのはウィーンではなくプラハだったという話が、いつも語られることになっている。その理由(なぜウィーンやミュンヘンではなくプラハなのか)について、プログラムに音楽評論家の岡田暁生氏が寄稿している。その結論は「ドン・ジョヴァンニ」が陰謀のうずまく大都市よりも、むしろ音楽的知性の高い中小都市において称賛される「実験オペラ」だったからだ、ということである。私はウィーンなら何度か行ったことがあるが、プラハは知らない。一度訪ねて見たいと思っているが、どうやら果たせそうにない。

「プラハ」の他にも「ドン・ジョヴァンニ」について語られることは多い。登場人物の女性像をめぐる考察。石像の意味とモーツァルトの親子の確執。いろいろな意味でこのオペラほど多くのことが語られるオペラもないほどである。それはつまり当時として前衛的な要素を持ち合わせ、結果的に後世の作曲家に与えた影響が極めて大きいからであろう。

だがこの日、新国立劇場で見た「ドン・ジョヴァンニ」は私の場合、そのような「当時の現代性」を感じさせてはくれなかった。音楽が饒舌に鳴り響いてもどこか古い時代のオペラを見ているような感じがしたのだ。だけどこれは世界中で行われている古典的な「ドン・ジョヴァンニ」の上演に共通してあてはまるような気がする。今はやりの大胆な読み変え演出が、これほど似合いそうなオペラもないからである。

私の会社の元同僚に、酒を飲むとあたりかまわず女性に声を掛け誘いこもうとする先輩がいたが、あれこそドン・ジョヴァンニのようだな、といつも思う。このオペラのテーマは、時代に普遍的なものを扱っているので、何も舞台が中世のスペインである必要などないし、そのほうがわかりやすい。なのにどういうわけか大胆な演出に出会わない。もしかしたら現代の日本でオペラを好む客層は、そのような現代性をあまり欲していないほどに保守的なのかも知れない。「このオペラは素敵だし、『フィガロの結婚』よりもっとよいかもしれない。しかしこれはウィーンの民の趣味には合わない」と、当時のオーストリアの皇帝のように感じている人は、案外多いのかも知れない。

演出や歌手にはそれなりに厳しい評価もあるが、総じて楽しめた。やはりフルラネットのタイトル・ロールは好演だった。第1幕が緊張に満ちていたのに比べると、第2幕では余裕からかやや集中力に欠けたものだったように思える。全編、これだけ凝縮された音楽は類を見ないほど素晴らしく、モーツァルト最高傑作だからこそ感動的だったのだろう。演奏(や舞台)の魅力というよりも曲の魅力に圧倒された3時間。暮れ行く新都心の風景もバルコニーの風にあたりながら心地よかった。

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