2015年6月19日金曜日
R.シュトラウス:歌劇「影のない女」(新国立劇場、2010年5月20日)
R.シュトラウスの歌劇「影のない女」を「ばらの騎士」よりも前に見たことはひそかな自慢である。それも退屈しっぱなしであったわけではない。3時間余りの全体をかなりの興奮と感動を持って味わったのだ。しかもストーリーなどあまり知らなかったというのに。
ほとんど衝動的に買い求めた新製作のプレミア公演を新国立劇場に見に行った。その結果発見したことが3つある。まず音楽。R.シュトラウスの管弦楽の見事さはいつどこでも語られているし、それが数多くのオペラ作品にも充分に現れていることはよくわかっていたつもりだが、このオペラでもまたその通りで、しかも初めて聞く者にさえ大きな感動をもたらすと言う事実である。
次に新国立劇場の照明の美しさ。それによって動きの多い演出が、大変に見栄えがすることになった。結果的に初心者でも飽きないばかりか、結構わかりやすい舞台となったものと思われる。
3つ目は、この作品のようにあらすじを読むだけで辟易するような作品は、むしろ音楽や実際の舞台から入るのがいいのではないか、ということ。オペラのあらすじを、ここで記憶を蘇らせる意味を含めて書き記そうと思ったが、なにせ複雑なのだ。だが参考になるものはある。このオペラはシュトラウス版の「魔笛」だという事実である(「ばらの騎士」が「フィガロの結婚」、「アラベラ」が「コジ・ファン・トゥッテ」である)。ホフマンスタールとの共同制作第4番目の作品は、様々な苦悩を持つ2組のカップル、という設定である。
ただ「魔笛」の時代には男女はただ試練に耐え、結ばれればよかった。けれど100年以上が経過し第1次世界大戦の時代になって世の中は複雑なものになった。「影のない女」の時代、そのカップルに存在する問題は子供ができないこと(いや、作らないこと)である。生まれるはずの子供は中絶され、天からの声となって響く。そして2組のカップルが最後に至る結末では、ひとつの解決にはなっている。だがそれはめでたく子供ができるというわけではないのだ。
Wikipediaの助けを借りて簡単にあらすじを引用しておく。
「東洋の島々に住む皇帝は、霊界の王(カイコバート)の娘と結婚している。皇后となった彼女には影がなく、子供ができない。影をもたぬ呪いで皇帝が石になるのを嘆き、皇后は貧しい染物屋の女房から影をもらい受けようと図る。しかし、結局彼女は他人を犠牲にしてまで、影の入手を望まない。その精神の尊さゆえに奇跡が起こり、皇帝は石から甦り彼女も影を得て人間になる。愛と自己犠牲による救済の可能性を暗示する。」
以下は当時の文章だが、これだけでは舞台の様子も伝わりにくいので、日経新聞に掲載された新聞評の切り抜きも掲載しておきたい。書こうとすると難解な作品なのだが、実際に聞いていると心が洗われるような美しさが充満しているし、舞台展開の面白さが見るものを楽しませてくれる。長いが不思議な作品。
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平日の夕方5時開演、というほとんどの勤労者にとっては見に行くことの不可能な時間帯に、いったいどのような、そしてどれくらいの客が来るのか、という点も興味をそそった。2万円近いチケットは売り切れている様子もなく、毎年多くのヨーロッパ系歌劇場が引っ越し公演を行う我が国で、はたしてどれほどの公演なのか期待半分、あきらめ半分だったことは正直に告白しておこう。
さてその公演を聞いて、いや見て、私はこの「魔笛」の20世紀版とも言われる豊饒にして大規模な、従って長い長い(休憩を除いても3時間)オペラに興奮しっぱなしであった。演出の見事さもさすがで、長い縦板を組み合わせて様々な「壁」を組み立て、それが美しい照明に照らされながら様々に組み合わされる様子は、歌唱が途切れて管弦楽のみが鳴り響く時間と上手く組み合わされていた。
ワーグナー以降に作曲されたオペラの中でも屈指の作品であると思われるこの作品の解釈の多様さ(芸術的価値)、歌唱やオーケストラの出来栄えなどについて、初めて聞く私がここに述べるには、もう少し準備が要るであろう。新聞に掲載された評論は辛口でそれを鵜呑みにするのもしっくりこない。だから、取り急ぎ素人の感想を率直に書いておこう。
まず、オペラはやはり「見るもの」だと思ったこと。次に20世紀の音楽作品も、集中して聞けば官能的でなかなか「聞ける」と思ったこと。そして、ドイツ語のオペラ界に屹立するワーグナーの作品を、やはり「生で見たい」と思ったこと、である。複雑な現代に生きる夫婦に生じる問題は、モーツァルトの時代の価値観では乗り切れない課題を呈している。
カーテンコールを経るにつれて熱心なファンからはブラボーが鳴り響いた。心の中で何かとても充実したものを感じながら帰路についた。
皇帝:ミヒャエル・パーパ
皇后:エミリー・マギー
乳母:ジェーン・ヘンシェル
バラク:ラルフ・ルーカス
バラクの妻:ステファニー・フリーデ
演奏:東京交響楽団
(指揮:エーリッヒ・ヴェヒター)
演出:ドニ・クリエフ
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