2015年6月14日日曜日

モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(2001年4月1日、神奈川県民ホール)

次に見たオペラの公演は、神奈川県民会館(横浜)でのモーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」である。妻がモーツァルトのオペラを見たいと言い出したからだが、たまたま小澤征爾音楽塾の公演とかいうのがあって、若手の演奏家を育成するプログラムの仕上げにこの作品を上演するということだった。一流のスター歌手を大勢招くわけではないので値段が抑えられているにもかかわらず、いまやウィーンのひのき舞台にあがることが発表された小澤の指揮だから、まあこれは悪くはないと思われた。実際、我が国の伝統的なオペラ・カンパニーによる演奏とは少し違うものだった。以下はその時に記した文章である。ちょっとはずかしいが、そのまま転載する。

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4月1日(日)エイプリル・フール。この日の横浜はまるで初夏のような陽気に誘われて、山下公園にも沢山の人出です。横浜港に浮かぶ観光船も、穏やかな海の青さも満開の桜も、すべてが新しい年度の始まりを祝っているようです。華やいだ雰囲気が、いやがおうにも私たちの期待を膨らませてくれます。

小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトは今年で2回目、「コジ・ファン・トゥッテ」の初回公演に、神奈川県民ホールを訪れた人々は興奮に満ちた様子でどことなく落ち着きがありません。15時の開演時刻のかなり前から会場入りした私たちは、前から2列目といういつもとは違った雰囲気に心を躍らせていました。ここからはオーケストラピットが丸見えです。緊張した若いオーケストラのメンバーが、最後の楽器の調整に余念がありません。

前日の休日出勤を含め、ここのところの激務にやや疲れ気味の体に鞭打って、それでもポネル演出のDVD(アーノンクール指揮のVPO)でストーリーを確認したばかり。そして何と偶然なことにこのたびの公演では、ポネル演出の装置と衣装が使われるではありませんか。プログラムによると、小澤が初めてこの曲を指揮してデビューした1969年ザルツブルク音楽祭と同じとのこと。ただし舞台装置はミシガン・オペラのものを、衣装はワシントン・オペラのものををレンタルして使用するようです。演出はデイヴィッド・ニース。小澤征爾がウィーンの音楽監督に就任すると発表されたのが一昨年のことで自然と期待は膨らみます。演出のニース氏が我々の前を出たり入ったりと気ぜわしい中、オケのメンバーが揃ってきました。やがて指揮者が登場し序曲の演奏の始まりです。

幕が開くと、そこは18世紀のナポリ港。哲学者ドン・アルフォンゾ(ウィリアム・シメル)とグリエルモ(マリウス・キーチェン)、フェランド(ジョン・オズボーン)が登場する賭けのシーンです。東横線の急行列車のように快調に音楽を運ぶ小澤は、途中で拍手を差し挟む余地を与えず、ぐいぐいとモーツァルトの世界に引き込んで行きます。やがてお姉さんのフィオリディリージ(クリスティーン・ゴーキー)と妹のドラベッラ(モニカ・グローブ)が登場、それに小間使いのデスピーナ(ステファニア・ボンファデーリ)が加わって勢揃い。兎に角この曲は登場人物が多いうえに重唱が続くので、オケと歌手の調和が重要なことは言うまでもありません。

いつもながら小澤の音楽は、すべての音符をいったん解体し再度音楽の流れを組み直ことによって、慣例にとらわれない新鮮さを引き出してくれます。歌手の水準も低くないので、全体が均整を保った一定水準の出来栄えですが、そのバランスがあまりに見事なため、どんどんと流れていってしまいます。けれども私は小澤の実演で裏切られたことはほとんどありません。歌手のグローブと、オズボーンはひときわ高い出来栄え。デスピーナも悪くありません。

現代流の解釈では、2組のカップルよりもむしろアルフォンゾとデスピーナにも重点を置くものが流行りですが、今回もそれに倣ったものです。私の知る限りでは、ムーティの指揮するビデオでの、キャサリーン・バトルのデスピーナが際立って印象的でした(ちなみに、アーノンクール盤では、病み上がりのストラータスにこの配役を長年歌ってきた味わいが感じられないところが非常に残念です)。第1幕の終わりに医者に扮したデスピーナが「治療」を施すシーンあたりは、愉悦の極みといった感じで、見ている方もぞくぞくするものでした。

長い第1幕が終わり、休憩ののち再び長い第2幕が始まります。

ここでオーケストラの一部が入れ替わります。オーボエに宮本文昭が登場、コンマスもN響の堀正文にバトンタッチ。幕間に指揮台をちょっと覗いてみると、手書きでスコアの断片が書かれた一片の紙が置いてあり、これを順に繰っているのでしょうか、何やら試験直前の中学生のノートのようでした。

第2幕の冒頭はやや音楽が単調になり、少し眠気も誘います。けれどもフェランドとフィオリディリージの駆け引きが展開されてゆくこのオペラのクライマックスに至っては、なかなかの出来栄えです。「女はみんなこうしたもの」かどうかはともかく、フィオリディリージが改心してしまうあたりで、私は「ああなんということか!」と心を痛めるのであります。これでは老アルフォンゾに笑われるのは目に見えているのですが、だとしたら、このアルフォンゾこそダ・ポンテの仕業、いやモーツァルトの悪戯の権化に見えてきます。

モーツァルトが35歳で作曲した「コジ・ファン・トゥッテ」は長い間不道徳と見なされ、陽のあたらない時代がありました(ちなみにベートーヴェンはこの曲を最後まで不道徳と言っています)。けれども最近ではこのオペラが一番素晴らしい、という人までいます。私は音楽の完成度から言っても「魔笛」や「ドン・ジョバンニ」に軍配が上がると思っています。この上演に少しやきもきした私は、最後の賭けに打って出ることにしました。遂に5千円を投じて、カール・ベームの歴史的録音を買い求めることにしたのです。

フィオリディリージにエリザベート・シュワルツコップ、ドラベッラにクリスタ・ルートヴィッヒを配したこのディスクは、今でも燦然と輝く「コジ」歴史的名盤として名高く、EMIはそうであるがゆえにこの3枚組みの安売りをしません。まあこれも見識というものでしょう。収集家を裏切らないためにも、いいレコードは安売りしないで欲しいものです。

このCDは、序曲の出だしからウィーンの気風が漂っています。いまやこういうモーツァルトの演奏には出くわさなくなって久しい、と感じました。懐かしいベーム調の音楽は、私を古き良き時代に連れて行ってくれるのに数分とかかりません。何とも悔しいことに、少し出来の悪いと思っていた音楽が、実に気品に満ちて聞こえるではありませんか。往年の名歌手の歌唱が上品に音楽に溶け込んでいる様は、真の芸術品と言っても過言ではありません。こういう録音には最近ではお目にかかることはありません。耳に響く上質の音楽は、この曲がどこかロッシーニの味わいに近く、とろけるシャーベットのようです。

オペラは映像付きがいい、という人が大勢います。けれどもCDで聴くオペラに慣れ親しんだ後でもいいのではないか、と感じています。それはオペラが先ずは音楽芸術であるからです。つまり音楽的な味わいがわかって初めて他の要素にも目が向けられるのです。

舞台で見た「コシ」は、音楽的にも視覚的にも、今日の水準では及第点のものでした。オペラの値段の大変高い日本では、この公演でさえ決して安いものではありません。けれどもその価格も、東京から大阪へ往復するよりは安いと思えばいいのです。

歩いて石川町に向かう途中に横浜中華街があります。明治屋の斜め向かいにある「北京飯店」でえびのチリソースに舌鼓を打っていると、ジーパン姿のドラベッラやサングラスをかけたフィオリディリージが階上の予約席へと上がっていくではありませんか。やがてマネージャと共に現れたマエストロは、拍手する私たちの前でやや照れながらも軽くお辞儀をして下ったのでした。

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